死を描くということはすなわち、生活(生きること)を描くことに他ならない。
100日後に死ぬワニが巷で流行っているが、あれも「死を描くために生を描いている」と作者が語っていた。
だが、ワニは死ぬということを知らない。
この主人公は知っている。というのは大きな違いだ。
主人公の息子が、「胃ガンだと事前に知るのは、不幸だ」と語るシーンがあるが、そうではない。人間終わりを意識すれば何だってできるんだと映画は語りかける。
小役人的に事なかれ主義を30年貫いてきた主人公。
1人息子には邪魔モノ扱いされ、友人もいなけりゃ、趣味もない。
無理やり遊興に走ろうとするも虚しさを感じる。
最後の最後に今まで蔑ろにしてきた仕事を一生懸命やろうと決意する。(誰かのために生きようと決意する)
その背後では「ハッピーバースデートゥユー」と主人公の生まれ変わりを暗示するかのように学生たちが歌っている。
そしてラスト50分、撒いてきた種が一気に発芽し、花が咲く。
他者(職場の仲間)によって客観的に語られることで、再度、浮かび上がる主人公
主観から客観へ大きく舵を切る脚本・構成ともに凄い。
だが、縦割り行政が蔓延る市役所にあってなにか新しいことをやろうとすれば、各課をたらい回しにされる。
そして、功績が出来れば、政治家が選挙のために自分の手柄だという。
最初は理想を持って、市役所に入ったとしても、すぐ組織の論理に阻まれる。
組織の論理を壊す理想を市役所に蘇らせたかに思えた主人公だったが、日々の業務の中で、役人たちはまた書類の山に埋れていくカットが印象的だ。
今の邦画にありがちな嘘っぽい泣きの演技や、説明台詞はほとんどなく、これぞ、橋本忍×黒澤明。
1952年。
戦後からわずか7年の奇跡。
私たちは誰かに見つけてもらうために生きているのかもしれない。