YAEPIN

映画ドラえもん のび太の新恐竜のYAEPINのレビュー・感想・評価

3.3
いやはや、現代のドラえもん映画、力入りすぎ!!
タイトルロールの恐竜たちのCGアニメーションだけで涙が出そうな迫力だ。
ここの数分の映像だけでNHKの『地球ドラマチック』を見ているようだ。

昔のドラえもん映画から、映像、脚本、演出、演技、全てがエンターテインメント性を追求したものになっており、大幅にアップデートされている。

ひょんなことから手に入れた卵の化石を、タイムふろしきで孵化させ、そこから産まれた恐竜を育て、やがて別れを経験する、という大まかな流れは『のび太の恐竜』と同じである。
しかし、台詞回しや構成から、細かく細かくストーリーの盛り上がりが配置され、大人も子供も、一瞬たりとも飽きさせないための工夫が凝らされている。

例えば、前半ののび太がキューとミューを育てるシークエンスでは、ジオラマセットの中で楽しく2匹と遊んだり飛ぶ訓練をしたりするシーンの合間に、のび太が学校の授業や逆上がりで上手くいかず、「ダメなやつ」として扱われるシーンが交互に挟まれる。
小学校という社会で立場の弱いのび太も、キューとミューの存在により、それを忘れるほど楽しい日々を過ごし、自己肯定感も上がっていることが分かる。
マスな社会的評価に縛られることなく、自分が楽しみを見出し、必要とされるコミュニティで生き生きと過ごせばよい、というメッセージにも思え、早くも涙腺が緩む。

そして、ついにキューとミューを白亜紀に返しに行かねばならない時、のび太は嫌だと駄々をこねる。これは旧シリーズではあまり見ない光景だった。
返しに行くところからがこの物語の始まりなのだし、早く次の展開に進んでも良さそうなものだが、一度作品は立ち止まり、のび太のやるせない悲しみに寄り添う。考えてみれば小学生なのだし、駄々をこねるくらいさせてあげたい。
結局、新シリーズではお得意なのか、半ば無理やりなロジックでのび太は別れを受け入れ、白亜紀に旅立つのだが、流れを中断してでも子供の感情に向き合う姿勢に心が打たれた。

ここまででまだ前半30分程しか経っておらず、映像やストーリーテリングの情報量が格段に上がっていることが分かる。

終盤の、ひみつ道具を駆使した恐ろしいまでに見事な伏線回収には震えたし、タイムパトロールのメンバーが個性豊かでかっこよかった。

本作が、渾身の力を込めて弱きもの、小さきものに視点を当てようとした力作であるからこそ、気になる点はあった。

本作では、ダメダメなのび太が飛べないキューと自分を重ね、共に危機を乗り越える中で苦手を克服していく。
ただ彼らの状況は全く同じとは言えず、そのため若干の歪みがある。

まず、のび太が逆上がり出来ないことと、キューが飛べないことの重みは釣り合っていない。(のび太の苦手分野として勉強も取り上げられているが、その克服は描かれていない。)
人間社会において逆上がりが出来ないことはあまり大きくない問題だが、新恐竜にとって飛べないことは生存に関わる。

しかもキューの場合は、飛ぶための身体能力がないというより、そもそも翼の大きさが明らかに不十分である。
足が折れている人に走れと言っているようなもので、やる気や練習ではどうにも出来ない問題だ。

さらに、のび太がしずかちゃんから「ダメなアナタも好きよ」と聖母対応されている横で、キューは同類の新恐竜にすら激しく拒絶される。(メスや縄張りを争っている訳でもないのにいきなり同類を攻撃するだろうか、という点も疑問だった)

キューに必要なのは闇雲に飛ぶ練習だけすることではなく、翼の補強や、飛ぶ以外の移動手段を鍛えること、もっと言えばキューを受けいれサポートする群れだと思った。
それらが無ければ、キューは野生での生存は到底難しく、感動よりは暗い予感を抱いてしまった。
逆上がりが出来なくてもしずかちゃんに慰めてもらえるのび太とは深刻さが違う。

真摯に「多様性」を問い直そうとした作品ではあると思うのだが、どこか「施す側の欺瞞」、多様性を受け入れる側が気持ちよくなれる要素のようなものを感じてしまった。
YAEPIN

YAEPIN