武倉悠樹

アメリカン・ファクトリーの武倉悠樹のレビュー・感想・評価

アメリカン・ファクトリー(2019年製作の映画)
3.5
 GMの工場が閉鎖した街。いわゆるRust Belt/ラストベルト(錆びた工業地帯)に新たな工場の操業と雇用が。街に再び活気が戻って来るかとにわかに活気づくが、そこにやって来たのは、中国のガラス製造業。福耀(フーヤオ)。雇用を生み、地域社会と融和し、偉大なるアメリカの再興に手を貸したいと言いながら、悪魔は笑顔でやってくる。
 異なる文化がぶつかり、資本主義と、ナショナリズムと、グローバリズムと、人権といういくつかの巨大な歯車が、ガリガリと音を立て、時に火花を上げながらぎこちなく回っているところですり潰されていく人々。
 個々人の権利という意識が高いアメリカと、なんだかんだ近代化(西洋化)したといっても、そこはなんたって共産主義の中国。個の考え方が全く違う。その対比があるおかげで、より、”そこ”が見えてくる。

 印象的なのは、全体主義に物いわせて(低賃金、長時間拘束、安全度外視当たり前)ガンガン生産性を高めて、いよいよ、中国がアメリカの横顔をペシペシと札束ではたいたところで、案外中国側も嬉しそうじゃないっというところ。
 なんで、行くとこまで行って色んな大事な物を失ってからしか気づかんのかね?とも思うが、典型的な資本主義病と言うか、「何もなかったけど昔は良かった。草原には一面、野花が咲いていた」とか振り返る高齢の福耀会長とかね。年を重ねるノスタルジーもあるんだけど、典型的な資本主義のゴールした後燃え尽きみたいなところがあって、皮肉が過ぎる。

 我々は家族だと謳いながら、帰属意識と貢献だけを搾取する。そんな会社に態度に抵抗する為に労組を組織しようとし、結果的に解雇されていく人々。異国の地で歓待してくれたアメリカ人達の首が切られていく様子を、家族から引き離された自由の国で中国式の働き方を続ける人達はどう見るのか。どうにもアメリカ人は生産性が低いと進んでいく機械化を、明日は我が身ではないかと、どう見るのか。

 なんとなく、最近読んだ『ファクトフルネス』を思い出した。
 あの本曰く「世界は日々良くなっている」らしいのだ。あらゆる統計からもそれは明らかで、そう思えないのは、我々の認知構造と悪いニュースをセンセーショナルに報道するメディアの責が大きいと著者は主張する。しかし、問題はそこではない様に思える。
「世界が日々どうなっているか」ではなく「自分が日々どうなっているか」こそが問題であり「世界=自分」なんだろう、と。そもそも幸せという概念が主観的な物であり、それは相対的な印象に大きく左右される。福耀で働き続ける労働者はこう漏らす「GMの時は良かった。あんな給料をもらえることは今後の人生でもうないだろう」と。
「世界に分断は無い」とも、彼の著者は言う。そうだろうか。かつて、分断があったのだとして、それが今ないのだとしたら、分断の下側が上がって、上側が下がっている事を意味するのではないだろうか。
 今上がっている人間と、今下がっている人間。その二種類の人間が居るということは、それは大きな大きな分断であるように思う。それこそが、白人中流層と言う、マイノリティでもなく、社会の中で最も不利益を被っている人たちでもない人たちが、自分たちは恵まれてないと感じ、トランプを大統領にまで押し上げた力だろう。
 無論、その格差が、不当な搾取の上に成り立っていたのだ、だからそれを返しているだけだと正論は言える。
 資本主義という物は、基本的に、物と物。状態と状態に、差異があるからこそ、その幅が価値になるという原則がある。常に人がすり潰されることが運命づけられているのかなと、かつての借りを返すために、平成の30年を費やし、そしてこれからもまだまだ返し続けなければいけない国に居て、そんなことを少し思う。
武倉悠樹

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