Jeffrey

乳泉村の子のJeffreyのレビュー・感想・評価

乳泉村の子(1991年製作の映画)
3.0
「乳泉村の子」

〜最初に一言、大傑作。「芙蓉鎮」で大絶賛されたチン監督が日中国交十五周年記念として監督した戦争の中で忘れられた個人の物語を捉えた素朴な感動作で、悲劇の逃避行を余儀なくされた残留日本人孤児の物語を丁寧に描いた優しい作品である〜

本作は一九九一年に中国・香港合作のシェ・チンが監督を務めた日中戦争の終結時に肉親と引き裂かれ、中国人一家に育てられた日本人孤児の姿を描いた傑作で、このたびVHSを購入して初鑑賞したが良かった。いまだに円盤化されてない作品。日中平和友好条約締結十五周年記念と岩波ホール二十五周年かつエキプ・ド・シネマ第百回ロードショーの名画。日中戦争は一九四五年八月に終結を迎えたのはご存知の通りで、敗戦の大混乱の中、軍部はすぐに撤退を進めたが、後に残された民間人は、想像を絶する悲劇の逃避行を余儀なくされている。こうした背景のもと、生死の境の中で数多くの日本人の女性と生後まもない子供が、中国の大地に取り残されていった。この作品は中国にも河南省、洛陽に近い乳泉村に捨てられた日本人の赤ん坊を拾い、我が子同様の愛情を持って育てた羊角(ヤンチャオ)おばあさん一家、侵略者の子と言う宿命を背負って成長した少年の辿る道程を、心温まる視点で描いた感動の人間賛歌である。

監督は世界的に好評を博して岩波ホールでも大ヒットとなった「芙蓉鎮」のほか、数々の名作で中国映画通リードする人物だ。主演女優の一人の丁一は役作りの為に七キロも減量したそうだ。大島和子役を演じた栗原小巻は中国映画は初主演で、また映画での老け役も初めてであり、日本人の母親役への全力投入ぶりがうかがえる。基本的に撮影の舞台は標高一四〇〇メートルの病山間にある村が選ばれているが、東京と横浜と奈良での日本ロケも行われている。いわゆる残留孤児の存在と問題は、肉親を求めて八十一年第一回の訪日調査が開始されて以来、その深い傷跡が改めて注目されたと思う。しかし、戦後四十七年を経た当時、この問題は急速に風化してきた感がある。このような現状の中、中国映画界が暖かい心配りを持って制作したこの作品の意義は当時大きかったのではないか…。


本作は記憶が正しければ岩波ホール二十五周年を迎えて上映されていたと思う。チンなら八十八年の「芙蓉鎮」も岩波ホールで上映されてロングランになっていたが、自虐史観の当時の制作所会長あたりは、かつて中国大陸を侵略したとか、日本人が忘れた綺麗な日本語を話すのはチャイニーズだとか、まぁ、ネガティブなコメントをしていた事も思い出す。っとまぁ、中国残留孤児と言うのは実際にあって、敵国として戦った日本人が理由はさて置き、置いて来てしまった乳児を我身で立派に育て上げる姿は中々胸にくるもので、他国のましては他人の、ましては敵国の子供に感情移入するのは、母性が持つ強さなのかもしれない…。近年では我が子を殺すニュースが世間を騒がすし、挙げ句の果てには兄弟が兄弟を殺すのだから驚愕するばかりである。

先程岩波ホール二十五周年作品と言ったが、カナダ映画でシンシア・スコットが監督した「森の中の淑女たち」も同じ記念作品としてロードショーされていたが、この作品もVHSのまま置き去りにされて傑作である。本当に岩波ホール作品は名画ばかりが揃うにも関わらず、円盤化されないのだから嫌んなる…怒りよりも徒労感を感じる。話を本作に戻すが、チン監督は博愛精神を描くのが好きな様だ。または人類愛だったりする。とりわけ本作が何故に当時かなりの評価を得ていたかと言うと、多種多様な中国映画は日本にも流入してきたが、中国に置き去りにされた日本の幼児の人生を描いた作品がかつて無かったからだと思われる。それは無私の暖い心に育まれて成人した主人公が日本を訪問して生母に会うストーリー展開なのだから、日本人的には感動するだろう…。

なので、残留孤児の人がこの作品を見たらどう言う気持ちになるのかは知りたいものだ。日本の女優二人もこの作品には参加しており、素晴らしい演技を見せている。既にこの作品は当時中国で上映され観客の好評得ていると舞台挨拶で監督が述べていた。この作品は第二次大戦後、中国に取り残された運命をになったー人の日本人孤児の成長、中国側から温かい心配りを持って描かれているのかもしれない。この作品を見るにあたって、忘れがちにされてきたいわゆる中国残留日本孤児と呼ばれる多くの人々を生むに至った過去の歴史を振り返っておく必要があると思う。この作品では日本人の医者の遺児と言う設定になっているが、これはごく稀なケースだと思う。残留孤児の大部分が、旧満州の辺境地帯に送り出されていた満蒙開拓団の子女達だった事は、身許調査の過程から明らかになっていたそうだ。

そのことが逆に満蒙開拓団の悲劇性を浮き彫りにしていると説明する井出孫六氏の言葉を思い出す。敗戦から四十七年経った九二年、第二十三次までの中国残留日本人孤児の身許調査の総数一八四六名中、肉親に巡り会えた人の数はわずか六四十名だったそうだ。前置きはこの辺にして、物語を説明していきたいと思う。


さて、物語は訪日する中国仏教代表団の一人、ミンチンは、実の親を知らず、祖母のヤンチャオは育ての親であった。ミンチンは一九四五年、中国で交戦中の日本軍の駐屯地で生まれた。その年の八月、日本軍は敗戦を見た。中国河南省近くの韓家荏の村。既に無人と化していた日本軍の前線本部の近くで、ヤンチャオは草むらに捨ててあった日本人の赤ん坊がいるのを見つけ、抱いて家に帰った。彼女は夫を亡くし、産婆で生計を立てていたが、家には口と耳が不自由な息子のフールーと、娘のシウシウがおり、暮らしは貧しかった。赤ん坊は男の子だったので犬坊と名付けられた。彼女の義弟で、日本軍のために片腕を失ったカンセンは、彼女は日本人の子を引き取ることに反対した。彼女は悩み抜いた末に、犬坊をシウシウに言いつけて道端に捨てさせようとしたが、できなかった。

ヤンチャオは犬坊を孫として育てることにし、村の女性に貰い乳をして回った。三十歳になるがまだ一人もので、嫁が来るあてもないフールーの息子にすればいいと思っていた。犬坊は聡明でよく気のつく子に成長した。頑なだったフールーは犬坊を我が子のように可愛がるようになっていたが、遠く隔たった省で始まった鉄道工事の現場へ出稼ぎに行った。フールーの消息が届いてほどなく、ヤンチャオは息子が落盤事故で死んだことを知らされた。事故の後始末の為、ヤンチャオとシウシウは他の省にいかねばならず、子供のない行商人の牛夫婦に相談し、犬坊を里子に出すことにした。何年か経って、ヤンチャオは犬坊を尋ねた。実子が生まれた牛夫婦に、犬坊が冷たくあしらわれているのを知った彼女は、犬坊を家に連れて戻った。

娘盛りのシウシウに、隣村の年取った金持ちとの縁談が持ち込まれた。ヤンチャオは渋ったが、結納で老人と子供の生活がしばらくは潤うと考えたシウシウは、その話を承諾し、隣村へ嫁いで行った。老いたヤンチャオは犬坊の行く末を案じ、清涼寺の高僧に頼んで弟子にしてもらった。犬坊は明鏡と言う名を与えられ、僧となった。その後、ヤンチャオは亡くなった。中国仏教代表団は、来日以来多忙な日程をこなしているが、明鏡だけは悲しそうだった。それは、通訳として代表団に付き添う加藤ビ智子が早くから気づいていたことだった。学識豊かな青年僧明鏡が日本人を親に持つことが少なからぬ反響を呼び、大島和子と名乗る老夫婦が通訳の美智子に面会に来た。美智子は、明鏡が赤ん坊の時衣類に巻きつけてあったと言う細布を見せた。

そこには和子の名前と住所が記されていた。代表団の帰国を明日に控えて、明鏡は加藤美智子の計らいで大島和子の自宅に招かれた。和子の夫は満鉄(南満州鉄道株式会社)に医者として勤めていたが、明鏡が生まれる二ヶ月前に病死した。四十五年八月、敗戦を迎えた日本軍は撤退を開始した。乳呑み児を抱きかかえる和子は籐の手提げ籠に我が子を隠してトラックに乗り込んだが、指揮官はその籠をとって草むらの中に放り投げた。絶叫する和子を乗せてトラックを走り去った。和子は母として何一つやれなかったことを詫びた。二人の話は尽きなかったが、明鏡は個人的な感懐を振り払い、和子に見送りに来ないよう頼んだ。翌日、和子は空港ロビーの片隅で、密かに息子を見送った。中国に帰った息子は、ヤンチャオの墓に詣でる。

静かに大陸の地に立つ明鏡を石仏たちが見守っていた…とがっつり説明するとこんな感じで、空前の大反響を呼び、映画史上初、朝日新聞(いかにも朝日って感じ)の天声人語を始めとする各紙コラム欄を独占した作品である。スポーツ新聞などでも芸能面だけでなく社会面に取り上げるほどの反響。日中友好新聞では一面を飾り、作詞家や作曲家などが大感激をして、オリジナルイメージソングまで発表されるほどだったそうだ。さて、ここから印象的だったところを話していきたいと思う。まず他の作品は日本語もたくさん飛び交うため、中国語の字幕がついている。冒頭のシーンから、中国らしく日本の軍国主義に対しての恨み節がセリフとして入ってくるが、それはもういちいち気にしてられない…。そんで昭和天皇の玉音放送までが使われている…。

あの木材をおじいちゃんたちが削っているところに犬坊がやってきて、お追い返されるシーンは結構感動する。そんで中国人の子供たちが残留孤児の日本人の子供をいじめて、木の上から突き落とす場面や暴力を振る場面は痛々しい。これは中国に生えてる木なんだからお前は上に登ってマウンティングとるんじゃねーよって言う感じで血まみれにされるからやばい。それを発見したフールーが涙目になりながら抱えてあやす場面は良いシーンである。娘が多勢に無勢じゃ絶対に勝てないって母親に言う所とか見ると、やはり人海戦術とかが中国にはあるからやっぱ数の多さって中国的には大事なんだなと思わされた。この作品興ざめする場面もあって、どっからどう見ても日本人残留孤児を敵の中国人の人たちが助けてあげた、中国人は優しい、敵国人間を育てたのだから。もし日本人が逆の立場だったら中国人をここまで優しく育てなかったであろう、もっといじめただろうと言う感覚があって少し萎えた。特に映画評論家の〇〇さんあたりの論評を見たりすると本当に日本人憎しな論評が目立って笑える…。


ところで、中国映画特にこの監督の作品は壮大なBGMがバックに流れてメロドラマに仕立てるので、今見ると少し笑ってしまうのだが、このようなエピソードが予定調和のごとく繰り返される作風が当時の中国映画って多いなと思った。例えば息子が事故にあって死んでしまったなど、そういった悲劇がほとんど入り込むが、この作品にも見事に入り込んでしまっていた。別にそれがいけないと言うわけでは無いのだが、どの作品も似たり寄ったりだなと感じてしまった。それでも愛する者同士の悲痛な別れと再会の場面は感動はするものの、やはり日本人として見たときには興ざめする場面も多くあるだろう。ほら、張芸謀監督の「紅いコーリャン」もアートフィルムっぽくて好きだが、クライマックスの日本人による中国人大虐殺シーンとか、グエッ、、ってなるでしょ。特に保守派の論客が見てしまった場合はジ・エンドだ。

この映画すごく仏教的要素も含まれていて、中国では仏教がまだ盛んだったのか、この当時の仏教感がすごく感じ取れる。宗教を決して重要な人間の営みとは認めない社会主義中国においてそれは驚かされた場面のーつであった。この映画で仏教に不幸な少年を救う大きな役割を与えていたこと自体、作者たちの一見さりげない大きな冒険だったのかもしれない。監督が自国の文化大革命のイデオロギーを厳しく糾弾をしたのと同様に、国境を超えた人間の運命の変転を普遍的人間愛に昇華させた心境は、子供には罪は無い、罪は戦争にあると言う大義だったのかもしれない。それは、戦争や文化大革命など国家体制には厳しく、親子や家族など人間には優しくと言う宗教間にも似た思想を感じさせるのかもしれない。

それと中国には子を養って老に備え、穀物を積んで飢え備えると言う諺がある位だから、捨てられた子供をそのように活用すると言うのは考えられるだろう。だから日本人の親が自分の子供を育ててくれて感謝していると言う言葉は、実際に中国人の親たちにすればもはやこの子供はあなたたちのものではなく私たちの子だと言う思いでいっぱいなのだろう。それごこの映画の核心なのではないだろうか。実際に中国人のジャーナリストは、日中友好親善の為でもなく敵の子を育てて中国人の寛大さを表そうと言うためでもなく、日本人の子供が優秀だからと言うわけでもないと話していたそうだ。そこには全世界が共通する子供に対しての慈悲深さがあると言えるだろう。とは言う物の、残留孤児が日本に帰国したからといって、幸せになれるとは限らない。

そこで定期的な里帰り制度や生活補助金などを進める動きもあったようだが、そういうことをしてまた中国に戻っていってしまったその子たちが、そのお金を利用金として日本政府に繰り返し詐欺的行為でもらうと言う一つの運動になってしまったら今も終わらない従軍慰安婦問題や徴用工問題等の二の舞になってしまうだろう。とりわけこの映画が公開されたときの左翼側(自称リベラル)の絶賛ぶりがとにかく気持ち悪かった。長々と書いたが、この作品がソフト化されるのはまだまだ先のような感じがする。
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