せいか

死霊魂のせいかのレビュー・感想・評価

死霊魂(2018年製作の映画)
4.5
第一部~第三部を3/5-3/27のおよそ1カ月かけて視聴することになった。GyaO!にて視聴。サービス終了が惜しい。
全部で8時間近くあったのかなとは思うが、こんな大ボリュームのドキュメンタリー、多分もうこの先観ることはあるまい……。
メモを取りながら観たのもあって、実際の視聴時間はさらに数時間分膨れ上がっている。
いつもはFilmarksには視聴メモを整理もせずにそのまま張り付けているだけの形を取るが、今回はさすがに長過ぎたため、簡単に書きたいことをまとめておくに留めておく。

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公式の概要説明では、「背景や状況を提示し、収容所の扉を開ける第一部。飢餓の状況に衝撃がはしる第二部。そして右派を弾圧した側の証言者の重い問いかけと、死の間際にある人々の思いが壮絶にして崇高な第三部へ──。」と、誰が書いた説明文なのか知らないがそのように書かれてはいるが、特に各部ごとに際立ってそれぞれにテーマが立っているというわけではないと思う。特に第三部はもっと弾圧者側を取りあげるのかと思っていたが、さすがにそちらは口が重たいのだろう、極端に弾圧的と言えるような人物がインタビュイーになることもなく、2名が登場するのみであった(とはいえ、彼らの語る内容にもいろいろ考えさせられはする)。

本作は1950年代のいわゆる毛沢東時代の中国の動乱を生きた人々の「語り」を映すドキュメンタリーで、単純に作品時間もかなり長大でボリュームがある。人々の生の声はどの立場のものも重く、とても一度に観られない作品である。
私としては当時のことは知識としては押さえている程度で、その時代には生まれてすらいなかったし、一介の日本人ではあるのだが、それでもこの辺りの時代の中国というものは考えるだけでかなり気が重たくなってくるものがあって、正直目の前がくらくらするほどのものだった。国民も国も破滅的に、威圧的に振舞い、自分たちで自分たちの首を絞めていた時代だと思っているし、かなり直接的に現代の中国に影響を与えている時代だとも思っている。本当にできれば直視したくないと私ですら思うものがそこにはあるのだが、意を決して本作を観た次第である。

本作では「語り」によって数多の口(一部は手紙の文字)を通して、一つの場所で同じ時代に起きていた有様を浮かび上がらせている点に一番のフックがあると思う。
彼らは似たようなことも語るし、個人的なできごとも語る。だが、語りとは恣意的な行為なのである。語りというものには固まった視点があり、さらに記憶という不確かなものがあり、何を語るか語らないかという意識的にでも無意識的にでもそういったものがあり、本作ではたびたびそれらしい片鱗は感じるように、自己保身だって入るのである。言ってしまえばどうしても一種の創作性が入ってしまうものなのである(だから、インタビュイーの一人ひとりの在り方がどうであるのかという超個人的な切り抜き集にもなっていて、そういう意味でも話されている言葉の一つ一つ、編集の末に残ったその言葉の一つ一つに意味がある)。彼らの語るできごとに関しては国としては臭いものに蓋に近い状態で曖昧にされていて、実際の体験者のそうした語りによって掘り起こすしかない現状にある。しかも、そうした語りができる人物も、あの場所で生きた人々の中のごく一部の生き残りの、さらに一部の人々の個人史に寄った一人称の語りに頼るしかない。各々が自分を通した記録(=記憶)しか頭の中にはなく、インタビュイーたちが時折見せたように、記憶違いや言いよどみなどだってしょっちゅう発生する。

本作からうかがえるのは或る種の「語り」の力であり、彼らの口を通して数多の死者を、あのできごとを蘇らせるという働きもある。実際、第三部のラストの字幕では、「出演者たちに感謝したい 彼らの痛みが 死者の魂を 呼び覚ましたことで 耐え忍ばれた苦難は── 多くの人々に 知られるだろう」とある。多分、本作が目指している一番のものはそういった記憶の継承であって、過去を忘れさせないという複雑な想いだとは思う。インタビュイーの一人に、「みんな忘れている」と言葉を強くして語っていた人が配置されていたように、その危うさは強調したいところなのだろう。
とはいえ、上記の繰り返しになるが、私は、本作においては、「語り」というものの不安定さというものも如実に表現されていたと思う。人は何を語ることにするのか、どう語るのを良しとするのか、過去の陰惨なできごととどう向き合うことにするのか。「語り」は全てを公平に完璧に明らかにするものではないのである。しかもそこにさらに、ドキュメンタリー製作者側による「編集」という行為も挟まれて姿の見えない語り手として本作の全体に神の手として存在し続けてもいるのである。

本作では悲惨な収容所生活を強いられていた当人たちであるインタビュイーのほとんどがいっそ明るいとも印象を抱くような態度で語りを行っていたことも印象深いのではあるが、その語り手の少なくない人々がこの作品が出来上がるまでには死者となっていて、生き生きとした語りの後、暗転ののち、淡々と字幕でその死が伝えられるということも多かった(うち1人に限っては葬式の様子も追っている)。曖昧な「語り」でしかもはや明かすことができないものごとのその生きた証人たちですら、時の流れと共に一人また一人と現世から去っていくのだ。それを繰り返されるほどに、いつか遠くないうちにこの数十年前の出来事は完全に過去のできごとになってさらに曖昧なものへとなっていくのだということが突き付けられるようである。その空恐ろしさ。
いつかは本作で映し出された現在の砂漠の景色のように、過去は上から無理矢理塗りつぶされて、さりとて断片が無造作に放置されたようになるのだろう。砂にまみれて当たり前のように転がる骨の有様がそのまま「歴史」として転がるのだ。強烈なドキュメンタリーだなあと思うばかりである。これをまさに観ているときだって、生者がどれだけ語ろうとも画面越しに映る白い骨による無言の語りを目の前にしているような、口の中に砂の味が広がるような、そういう曖昧さを味わうことになるというか。

まさにその、現在もまだ茫漠としたままの寂れた砂地のあちこちに人骨が散らばっていることが日常としてあること。それに、現代に対する強烈な批判があるとも思った。第三部のラストは特に、延々、撮影者がこの場所を歩いては骨を前に沈黙をするを繰り返して、それを強烈に印象付けさせてもいる。もちろん、当時に関する記憶を留めることにも意味があるだろうけれど、その地続きである現代に対する静かな怒りを感じるというか。観ていてくらくらしてくる。

本作は50年代~の中国の出来事を特にある場所を中心にあぶり出すものではあったけれど、決してその時代に固まった視線があるのではなくて、あくまで「今」を見つめてもいる作品だったと思う。
そしてまた、これは決して海の向こうの話などではなくて、他人事ではない。語りを通してその不穏さは何度だって視聴者たちのほうに呼気が感じられるほど近付いてくる。現代の日本にも形は違えどいくらでも類似は見出せるものもある。そしてまた、現代の日本でも、あの砂漠のようなものとなっている、ならんとしていることは山ほどあるだろう。さらにマクロなものに範囲を絞っても、私たちはそれを感じる場面はいくらでもあるはずだ。


というわけで、精神にヒットポイントをくらいまくったのではあるけれど、良い作品を観させていただきました。すごいドキュメンタリーでした。本作を通してあの場所での数多の死者の魂を感じるというだけではない。死霊たちによって今生きているわれわれというだけでもない。何かもっと言葉にしにくい不気味なものを感じた。

ただ、最後に。作中で収容所で亡くなった人が書いた手紙が紹介されているのだけれど、画面上では中国語の原文は掲載せず英訳を掲載、さらにそこに日本語字幕が乗るという形なのだけれど、明らかに英訳版をさらにはしょっていたように思う(残酷だなと聊か思うが)。字幕の特徴として仕方ないのだけれど、そうしてまた「恣意的」な編集がされるという形になっているのがまた皮肉的というか。そもそもここに限らず、日本語字幕で観るという時点でそこは避けられないのだけれども。
しみじみ、何かありのままのできごとだとかがあって、それからあらゆるものを介して削ぎ落されてきたものの滴を受けて生きているんだなあと改めて思うばかりである。
せいか

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