しの

ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバーのしののレビュー・感想・評価

3.8
ティ・チャラ王の死という事件が、なんの理由づけもないままただ唐突な死としてそのまま描かれて、気持ちの整理がつかないままに世界が緊張状態へと向かっていくという構成が非常にリアルだった。常に「誰かの死」がキャラクターを薄暗く覆っていて悲痛だ。

前作で世界に対し「橋をかけた」からこそ、ワカンダは狙われているし近隣国からの圧力にも遭う。このあたりの背景設定がちゃんと続編らしくて良いし、個人の気持ちと関係なく世界がどんどん変化していく残酷さを演出している。時間が解決してくれないのだ。

ネイモアは鏡像であり、タロカンはワカンダのifでもある。大切な者を失うこと、その理不尽さに何百年も苛まれ、まさに「世界を燃やし尽くしたい」と思いながら生きてきた存在。やはり時間は解決してくれない。ではどこで終わるのか? 燃やし尽くしたら?

本作がすごいのは、この「燃やし尽くす」という選択肢をギリギリまでキャラクターが否定しない、いや、し得ないという作劇だ。クライマックスで祖先との繋がりを感じて云々……みたいな綺麗な話にならない。シュリは気高くないし、伝統は慰めにならない。

皆が喪失に怯えているからこそ、不毛なことが起こり続ける話であるともいえる。冒頭で提示された世界情勢に対して、根本解決が描かれない。クライマックスの戦いもとことん不毛。満を辞しての「ワカンダフォーエバー」は呪いの言葉のようにすら聞こえる。

つまり、不毛な戦いの先に待つのは「永遠」の不毛なのだ。かといって戦いをやめたところで、喪失の悲しみに終わりが訪れるわけではない。むしろ永遠に訪れないのかもしれない。死を受け入れるのではなく、その「永遠」を受け入れること。そこに比重がある。

こうした徹底的にアンチカタルシスな作りこそ、唐突な死に対する制作陣の受け入れ難さや戸惑いを反映しているようだ。何なら、彼らが前作で描いた「気高くあること」が、何の慰めにもならないとさえ描いてしまっているかもしれない。そこがキモだと思う。

だから本作が提示するのは慰めでも、解決でもない。ただ「自分も受け入れ難いし、戸惑っているんだよ」という素直な表明だ。しかし、ヒーロー不在の時代に辛うじて「橋をかける」ことができるとしたら、そんな素直さからではないか。

もちろん、物語としておかしな部分はある。一番は、チャドウィック・ボーズマンの扱いに真摯すぎた弊害として葬式が2回発生する居心地の悪さだ。この話、ネイモアとシュリ(とティ・チャラ)を鏡像関係にしているわけだが、それなら普通はどちらも「争いによって大切な者を奪われた」存在として描くはずで、シュリにとってはティ・チャラがその役になるはずだ。しかし、今回そういった物語的要請による設定やこじつけをあえて徹底的に排して、現実世界と同様に「唐突な死」として真摯に扱っているが故に、物語的には接続しなくなっているのが気になる。「世界を燃やしたい」って、別にそういうことじゃないしな……と思って観ていると、中盤である人物の命が奪われてようやくネイモアとの対比が成立するようになっている。

ここに若干の飲み込みづらさはある。単に物語的な接続という観点、あるいは葬式が二度繰り返されるぎこちなさみたいな観点だけでなく、作品姿勢として、物語的要請に基づく死とそうでない死が一つの作品で同居しているのがなんだか居心地悪い。

また、ミドルクレジットの映像は不要だと思う。受け入れるとか乗り越えるとかではなく、最後までひたすら悲しいだけ。でもその気持ちが良くも悪くも自分の中に今後もずっとあって、終わらせることはできないんだと気づくことが、辛うじて我々ができうる前進なのではないか、と示すような涙が非常に美しかっただけに、余韻を壊された気がしてしまった。

そして正直、誰も彼もがずっとモヤモヤしているので楽しくはないし、鑑賞後のテンションとしてはやや普通になってしまう作品かもしれない。喪中なんてずっとモヤモヤして楽しくないわけだし……。しかし、この規模のヒーロー映画で、しかも前作で確固たるヒーロー像を打ち立てた作品の続編で、ここまで徹底してアンチカタルシスで、ある種そのヒーロー像を否定してしまうようなものを、戸惑いすら内包させる形で真摯に作り上げた例は他にないだろう。その心意気を讃えたい。

※感想ラジオ
【ネタバレ感想】「面白くない」から誠実?斬新なヒーロー映画『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』
https://youtu.be/erl-yS1p1Ro
しの

しの