せいか

ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

02/18、Amazonビデオにて動画レンタルし、視聴。字幕版。
あの猫の画家の話ねとか、精神疾患ねとかそんな意識で観る者を往復ビンタして正座させてくるような映画である。かなりどっしりと構えて物語として昇華していた。

ルイス・ウェインといえば、インターネットをながくやっていると、少なくとも日本においては、「ある画家が統合失調症の重症度を増していくほどに絵にこれほどの変化が見られるようになった」というお題目で彼の絵の変遷が端的に切り抜かれ並べられたものを通してよく知られていると思う。少なくとも私はそうで、初めてそうした紹介を通して彼というかその作品を知ったのも、中学生くらいの頃だったと思う。当時は、普通に愛らしく猫を捉えて描いていたのが段々とサイケデリックに変貌していく様子が素直に恐ろしく、気味悪く見えたものだった。サイケデリックな絵に関しては気持ち悪ささえ感じていたと思う。ただ、そういったマイナス寄りの気持ちで後半期の彼の絵を見ることは不思議と歳を取ると共に和らいでいき、今となっては映画を観ながら、サイケな絵もこれはこれでええやんと思うくらいにはなっていた。これは映画の見せ方もあったと思うし、かつてはかつてでいかにも衝撃的に並べられたものにいいように感覚が踊らされていたのもあると思う。

なにはともあれ、ルイス・ウェインといえば、私からするとその画家の名やその人自身というものは置き去りにして、そうやって切り抜かれた一面と絵たちのイメージがあまりにも強く、他はおざなりといった感じでいてしまっていたのだが、そういった印象が前面にあるその画家本人に切り込んだ伝記物語的映画作品とのことで放映当時から興味を持ち、観たという次第である。
いささか余談にはなるけれども、視聴中からずっと、実際の画家その人を置き去りにして、提示されて周知されたイメージだけで印象を持ったままおざなりでいられるのはあんまり良くないよなあと改めてひしひしと感じて反省していた。この場合のそのイメージは別に誤りという程のものでもないけれど、センセーショナルなところに引っ張られてしまっていたのは事実なので。
また、本作が決して楽しい作品ではないというのはそうした前もって抱いているイメージからも想像はできていたけれども、その予想を遥かに超えて心を抉り、しかし同時に優しい眼差しも持って世界を描こうとする作品でもあったため、まあ気楽に楽しめるだろう程度の腹積もりで見始めたこちらとしてはけちょんけちょんにされもした。つまり、めちゃめちゃ面白かったです。あくまで物語化されたルイス・ウェインの生涯ではあるのだけれども、こういう人生があって彼の画家としてのキャリアがあったのだなあというか、当時におけるルイス・ウェインがどういう立ち位置にあったのかを垣間見れもするものだった。現代において面白おかしく取り上げられている異常な絵の作者という一面だけではなくて、それ以前の彼の絵の評価がどうだったのかを丁寧に描いていたと思う。直接の交流があるわけではなさそうだが、SF作家として有名なウェルズも彼の仕事を評価し、明文化していたというのも知らなかったので、そういう繋がりも出てくるのかと驚きもした。貧しさの中で老境にあるルイスのための基金の設立まで行ったとか。
あと、ルイスを演じたカンバーバッチさんは『SHERLOCK』から知った俳優さんで、時折、映画を観ていく中でお見かけすることもあったけれど、個人的には特別何か思ったこともなかったけれど、本作においてはなんだか役者として好感を持てた気がした。ここがすごかったとかは特に明文化できないし、以前までが下手に思えたとかそんなわけでも全然ないのだけれど、逆に言えば好きとも良い思えなかったのが、今回はそういうのが取っ払われたというか。今後観ていく楽しみが増えたのかもしれないなあとちょっとばかり思った次第である。

さて、長くなったがいよいよちゃんと本作の感想に入る。

繰り返しになるが、本作は、イギリスの画家ルイス・ウェインの生涯を伝記物語的映画作品として描くものであり(というよりも、ルイス・ウェインを題材とした物語という認識のほうが正しいのではないかと思う)、彼の青年期〜老年期までを対象としている。

彼は唯一の男子且つ長男として若い時分から大黒柱的な役目を押し付けられ、家計というものを考えて行動するようにととにかく作中を通して妹からは言われ続けていたり(それでも致命的にそのセンスがないというか疎いというのがまた彼の首を絞め続けることになる)、身分違いの女性と結婚したことが社会に対する負い目になったり、それがどこまで本当に影響しているのか家族にも影響を及ぼしていることを責められたり、その愛する妻も早々と死に、妻との思い出もある最初の飼い猫も死に、画家として名は馳せようとも搾取される契約をしてしまっていたためにいつまでも貧しく……といった感じで、とにかく彼の人生は彼にとっては軋轢ばかりである。彼自身は性根から無邪気でいるしそうありたいのに、社会がそうでいることを許さない。妹である長女が諦めたように家を切り盛りし、自分は大人だからこれでいいのだと言っているようなそうした在り方が暗黙のようにその人を抑えつけてくるといったことを本作ではテーマの一つとして描いていたと思う。そしてそうした在り方の代表ともなっているこの長女はまさに作中においてルイスに対し、大人になるように迫り続けるのである(そして自身の死の間際になってようやくそうやって大人ぶった側面を脇に置いて休み、あなたは誇りなのだとルイスと和解しようとするのだ)。この長女のキャラクター造形が、どこかヒステリックで既に精神的にキてしまっている危うさみたいなのを滲み出させていたのも印象的だったし(序盤の、包丁を握りしめているシーンのなんとなくある怖さといたたまれなさよ)、この役割にある彼女がどういう存在なのかというのをよく表現していたと思う。
ルイスも少なくとも作品においては彼なりに大人だからで生きようとしていたけれど、社会や周囲がそれに上回ってもっと賢く立ち回るように強いていたところがあったり、その狡賢さで彼に寄生したりで、これは苦しいよなあとつらい思いでこういった場面は観ていた。むしろ共感と言ってもいいと思う。物語後半、いよいよ心の病が深くなって発狂したようにスピーチをしていたアメリカ滞在中の彼が、これまで猫を忌まわしい存在として捉えてきたこの世界を通して人間というものが分かった、「我々は誤った電気に犯されている〔…〕人間は堕落した種であり── 未来はなく 破壊だけが本能の動物だ!」と発言するのも、何もおかしいことではないのだ。歪んでいるのは、社会から見ればおかしいところがある彼その人のみにあるのではなく、むしろ彼を包含するものにある。おかしいものとして排除する社会やその構成員が持つ固定観念の一つ一つが大なり小なりの桟となって世界を檻として形作り、まるでそれを秩序であるかのようにしている(し、実際にそうやって秩序で安定した社会ができているのも事実なのではあるが、そうしたものは永久不変なものではなく、本作における猫の評価のように改められていくことでより良い社会を目指していくものなのだが)。そういう点で本作はまさに今現在の社会が持つ普遍的な息苦しさというものに対して叫び声を上げている作品でもある。
こうした、社会が押し付けてくる固定観念(=偏見)というものを本作はいろいろなところで散りばめてもいる。ルイス自身が持つ容姿への劣等感及びその容姿故のいじめ体験、その性格の奇矯さに対する周囲の対応、長男であること、男であること、女であること、階級に対する意識、結婚(とそのための女の年齢)、階級格差、性観念云々、とにかく上げれば枚挙にいとまがないほどのものが本作の中には詰め込まれていることは観ていくうちに分かってくると思う。
そして、また、だからこそ、物語前半においてルイス自身が隠すべきものをとして認識して髭で隠していた口唇口蓋裂を裸になった気持ちでエミリーに見せたときに、まるでなんでもないことのように彼女に受け入れられたときのその呪いからの解放の凄まじさというものが画面越しにも強烈に現れてくるのである(その直後に世間体の権化の役割を負う妹が、髭を剃った彼を責め苛めている描写があるのもこういう意味でも強烈な表現になっている)。

本作ではトラウマというものも重要な位置にあり、ルイスは船が沈没して溺死する恐怖を子供の頃からずっと抱えている。
ルイスの妻であり彼の中でいつまでも光の存在で在り続けるエミリーもトラウマの持ち主だったものの、こちらは、閉所に閉じ込められる中でルイスから助け出されたのだ、この世界が美しいことを教えてもらえたのだと、少なくとも言葉として明確に救われたことを口にしていた。
だが、ルイスは、エミリーと結ばれようともそこに光こそ見たかもしれないが、それでもまだ心の根っこにある不安は解消されてはいなかったし、むしろその彼女も死に、大切にしていた猫も死に、周囲からは圧迫されという中で、遂に、ずっと抑え込めていたトラウマが爆発し、蛇口の水が溢れるまで垂れ流し、小便も垂れ流し、子供の頃のように叫んで父母に助けを求めるといった異常行動となって現れてしまっている。彼のこの強迫観念が救われることはなかったのだ。だって世間そのものの在り方とそこへの折り合わなさゆえに発生せざるを得ない不安感が、この世界がそうである限り、拭えるわけがないのだから。つらい。

こうして本作は表面的にはある程度軽くというか、イギリス的皮肉さを持ったライトさでその暗さを延々と描き続けてもいるし、ルイスもついには叫びもするのだけれども、決してこの世界の暗さを描くだけに留めてはいない作品でもある。
美術面にしたって、服装、背景など、どのシーンも大抵がどれだけ退廃していようともなんとなくでもどこかに肯定するような優しい美しさは残しているし(どことなく絵画的ですらあるし、一部のシーンはそういう表現をしてさえいる)、もみくちゃにしてくる世間の中にいる人間たちは実際のところ、親切さ、優しさもルイスに対して投げかけ続けている。そしてルイス本人にしたって、どれだけ家族が重荷でも彼自身の意志として、別にだからといって家族が憎いわけではなく、むしろ(意識できてはいないが)愛情の対象として眼差しを向け続けている。世間は彼を搾取するけれども、同時に彼やその作品を温かに受け入れてもくれていたのだ。こうした側面が特に取り沙汰されるのが、終盤、再会した紳士から、ルイスが若いときから拘っていた電気の理論はつまり「愛」と言い換えられるものであることを聞くシーンであったり、老境の彼が安心して暮らせるように基金が創られ、妹たちもそのために活動しているというシーンだろう。
そして彼は最後、自身のトラウマを描いた古い日記の中に亡くなった妻がいつの間にか挟んでいた彼女が大事にしていたストールの切れ端を見つけ、いくつかの荷物を抱えて病院を抜け出し、その先にある自然の中にかつてエミリーと共に見たときのような美しい景色を見出し、この世界はエミリーが言ってくれたように美しいものであることを実感し、こうして暗黙のうちに彼がいつまでも抱え続けていたトラウマからもようやく解放されたことが表現されてこの物語は終わるのである。

……といったように、本作、ルイス・ウェインという人物を題材にしながら、この閉じたような世界の息苦しさも美しさも描こうとする作品だった。世の中は化け物だし、私も化け物だ。誰を傷つけるでもなく無邪気に生きようとしても、そんなことも許されないし、こうしたものどもはどうしようもなくこびりついている。それでも世間は厳し過ぎるところばかりでもないし、誰かの優しさが美しいものを見せてくれもするときもある。ペンの一つで氷解する偏見だってあるかもしれない。いつだって何でもないように泥沼に容易に沈めもするけれど、それでもその足掻きの一つ一つがそうした世間の認識を少しずつよりよいものにもしていくのかもしれない。人間は美しいものを破壊するだけの能しかないわけではないはずだ。この物語を通して、暗い世界にほんの少しの光を投げかけるようなものになっていたと思う。

特にやはり、エミリーによって身体的な呪いから救い出されたシーンと、ラストの絵画的な光ある美しい風景を見出してトラウマから自由になり世界の美しさを認識したシーンの二つが本作の中で圧倒的な開放感を持っていて強烈だった。
この世界は見れば見るほどに醜さがあって歪んでいるけれど、よく見てみればもっと違うものもあるんじゃないか。少なくとも本作にあっては、電気=愛の図式を持っていなかった時点のルイスが絵を描いている場面までしかないけれど、奇怪にに世の中が見え、絵もサイケデリックになっていた彼が、ラスト、その図式を知ってから、平穏の中で再び過去の美しい時を振り返りながら、過去と重複する美しい景色を「見る」というのが本当にいい。自分の歩んできた道程が彼のとことん優しく働きかけるラストでもある(それさえない現実も珍しくないのだが)。そういう意味ではめちゃくちゃにハッピーエンドな作品でもある。

本作では最初の時点からとにかくルイスは自身の持つ電気の理論を確立させることに躍起になっていたり、傍から聞いているとむしろ電波ゆんゆんとも取られかねないその思想を披露していたけれど、つまりは彼はずっと自分でもそれと認識できていなかった「愛」を求め、語り続け、それによる自分や世界の救済を訴え続けていたのだと思う。この電気理論があればいつだって過去に繋がれるという考えにしろ、愛として氷解した後、ラストで病院を抜け出しながら過去を断片的に振り返っていくところでその答え合わせとなっていたり、 The Electrical Lifeというタイトルにとことん核心を詰め込んでいると思う。もちろん、サイケデリックに見える世の中というのもここには含まれるのだけれど。

中盤あたりだったかのルイスとエミリーの掛け合いの中で(そしてこれが直接、ラストの美しさを再び見出すシーンにも見た目的にも重なるのだけれど)、「きみが世界を美しくした 優しくて温かい場所に」、「私が美しくしたんじゃない 世界は美しい あなたが教えてくれた」というのがあるのだけれど、これだよなあ。他者というものを介在した世界のありさま。
終盤でルイスは、きみは絵を通して他者と繋がりを持っているんだよと言われていたシーンもそうだけれど、そういう繋がりや寄り添い方、相手をもとめる心。ある種の「ことば」による意思疎通(=繋がり)というか。
こっちもうっかり、世界は美しい、あなたが教えてくれたとか言ってしまいそうになる。


余談。
作中では写真の台頭によって新聞の挿絵画家として活躍していたルイスの立ち位置が危うくなる描写が挟まれていた。こうした点は今まさに現在、AIによる美術描写とそれに影響される働き手たちという構図を語るのに対して触れられているのをしばしば見てきたものである。まさにこの写真の台頭と画家という対置構造で語られていた。ああいう語り口って確かに正しくて、新しい技術によってマイナスの影響を蒙る立場の人がいるというのは進歩と共に必ずどこかにはあるものではあるけれど、ことAIのそれに関してはこれまでのそれとはまた違うものがあると思うのだよなあと思うので、ああした比較をされるたびに、なんかズレてるよなあと思ったりする。実際に写真技術が一般化していく過程の危機感と似てはいるのかもしれないけれど、やってることそのものの危うさはだいぶ違うよなあというか。
本作もああいう描写の中で暗に今現在にもあるそういう技術進化と旧態のものとの確執に触れてはいたのだと思うし、多分、作品を通して結果的に、「超写実的にレンズの向こうの世界を映し出すカメラと違って、絵はそこに想像力などを与えることができるよね」というところで活路を与えることで技術進歩に対する答えを与えていたと思う。それはそれでいいと思うけれど、この場合、結局、写実的な絵というものの否定になるし、多分、暗に意識されているのだろう、今まさにのAIの台頭に対する、クリエイティブ側に立つ作品側の答えにはなってないよなとちょっと思いはした。めちゃくちゃ余談だけれども。
せいか

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