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シン・ウルトラマンのsanbonのレビュー・感想・評価

シン・ウルトラマン(2022年製作の映画)
3.8
「庵野秀明」「ウルトラマン」好きすぎ問題。

「島本和彦」の自伝的漫画「アオイホノオ」でも語られている通り、学生時代の庵野秀明は、ジャージ姿に自作の「カラータイマー」を付けて自ら主演を務めた、ウルトラマンの短編映像をこの頃から既に撮っていたり、今作のニッチ過ぎるネタのオンパレード具合を見ても、ウルトラマンに対するその偏愛ぶりは痛いほどに伝わってくるのだが、今回はその深すぎる愛故に一本の映画としては少し空回りしてしまっていたように思えてならない。

何故なら、庵野秀明にはウルトラマンを伝えるうえで、"語らなければならない情報が山のように存在してしまうから"である。

そんな今作は、好きすぎるあまりに周りが見えなくなってしまう典型とでも言うべき作品と言わざるを得ないであろう。

そのうえで、庵野秀明がメガホンまで取ってしまうと、とても収拾がつかなくなる事を危惧して、今作の監督を「樋口真嗣」に一任したのだと勝手に推察してしまうのだが、結果として総監修庵野、監督樋口という製作体制は、作品としての方向性をチグハグにしてしまう悪手だったのではないかと感じてしまった。

ちなみに、僕のこれまでのウルトラマン遍歴を軽く紹介しておくと、有名どころの特撮ものの中で序列を付けるなら

「仮面ライダー」=「ゴジラ」>>>「ガメラ」>>>>ウルトラマン>>>>>>>「戦隊シリーズ」

くらい思い入れはそれ程深くはなく、僕の小さい頃は初代と「セブン」と「タロウ」の再放送が夏休みとかになると、ローテーションでよくやっていたのでそれを楽しんだり、親にせがんでビデオを借りて観ていたりもよくしてはいたが、ウルトラマンというより特撮全般が好きだった事もあり、そのリソースは必然的に分散される事にもなってしまったので、愛着度合いで言うと正直そこまでという感じで、知識量もそこまである訳ではないし、何故か「ハヌマーン」が出てくる映画だけやたらと覚えているが、それも別にいい思い出ではなかったりする。笑

そんな僕の視点から今作を観ると、ただただ詰め込みすぎとしか言いようがなかった。

「シン・ゴジラ」の時は、第一作目をベースにしつつも自らの土俵に上手く落とし込んだ、全く新しい超解釈のゴジラ像をよくぞここまで作り上げたものだと感心したものだが、それは庵野秀明がゴジラをそんなに好きじゃなかったのが逆に功を奏した結果なのだという事がよく解るくらい、今作はあまりにオリジナル版にリスペクトを込めすぎている。

そのせいで、全39話あるなかから、これだけは外せないというストーリーを取捨選択しきれずに、半ば強引にぶち込みすぎたあまり、ツギハギな展開を余儀なくされていたし、各「禍威獣」との戦闘描写も現代風のアクションにはアレンジせずに、あくまで当時の映像を現代技術で再現しつつのブラッシュアップという感じで、元ネタを知らない人から見ればかなり違和感のある奇妙な演出ばかりに映ったに違いない。

特に、庵野秀明は重度の特撮オタでもある事から、CGなのに敢えて人形や着ぐるみっぽい造り込みをシンゴジ同様今作でも敢行しており、最新技術を駆使した映像に何処か古めかしさを演出する事を是としている。

これは、特撮好きで且つ幼少期から古い作品にも触れてきた僕のような人間からしてみれば、辛うじてニチャれる要素にはなっているのだが、それを面白さに置き換えられる条件を今の若い子達が果たして持ち合わせているのかは甚だ疑問である。

それこそ、今やアニメでも"神作画"が需要の大部分を占めているこのご時世に、特に特撮好きでもなく幼少よりCG全盛のヒーローものだけを観て育ってきた20代より下の世代からしてみれば、今作の戦闘描写は単純に出来の悪いヘンテコ映像としか感じないであろうし、僕も出来る事ならそういうメタ的な視点を抜きにした、今風でスタイリッシュなアクションを純粋に楽しみたかったというのが本音ではある。

というのも、こういう大衆向けなのに限定的な知識を備えていなければ十分に楽しめない作品を観ると、いつもなんとも言えない羞恥心に駆られてしまうからだ。

例えば、あるシーンを観て「あ、これ○○の○○をそのままオマージュしてるんだ!すげー!おもしれー!」と元ネタに気付けた時、その喜びと同時にそれに気付けた優越感に浸っては「これ分かってない人いるだろうなぁ」とマウントをとった気になりニチャる自分を俯瞰で見て、一瞬で恥ずかしくなってしまうのだ。

しかも、そういう分かる人には分かるネタというのは、面白さの本質からは本来ズレた要素であり、尚且つその割合が非常に高い今作は、言ってしまえば"カルト的"と言わざるを得ず、ストーリーや映像の純粋な楽しさからは正道を外れているのだから尚更だ。

そういうジレンマを呼び起こさせない為にも、こういった作品こそ、懐古心をくすぐるような作りに重きを置かず、古参や新規、知識のあるなしに関わらず純粋に楽しめるスタンスの方が好感が持てるというのは正直ある。

その点でいえば、シンゴジは中々それが上手く出来ていたと思うし「マルチバース」の扉が開く前(フェーズ3まで)の「MCU」なんかは、諸々を踏まえても超優秀な部類だったといえよう。

そして、詰め込みすぎの弊害として「禍特隊」周りの人間模様が、あまりに掘り下げ不足なおざなり具合になっており、誰一人として感情移入出来ない、人間味のあるキャラクターがいない状態になってしまっていたのも大いにいただけない点である。

ゴジラの場合はvs人類だったから、未曾有の脅威に立ち向かう人類側の、苦悩や葛藤や試行錯誤の末の成長などが描かれる機会がしっかりと用意されておりそこが良かったのだが、今作に至っては禍威獣と相対すのは基本ウルトラマンであり、根本的な問題解決はウルトラマンに丸投げし、戦闘中人類は傍観を決め込むしかない状況に加え、庵野秀明がやりたいバトルシークエンスが多すぎるあまり、そのエピソードを捌くのに多くの時間を要してしまい、禍特隊の面々といえば大半が宙を仰いでは「ウルトラマン」やら「神永さん」とつぶやいている印象しか残っていないくらい薄い存在感になっており、交わされる会話もあまりにシステマティックかつ専門的なものばかりだったのも、印象に残らない要因の一端となっていた。

ただ、ウルトラマンというTHE昭和な安直かつ大味なネーミングセンスに対して、最重要機密にあたる符牒として「ウルトラ」という単語が用いられる事から命名したという理由付けは、めちゃくちゃそれっぽくて好きだった。




ここからネタバレ





そして、最後の「ゼットン」戦に至っては、これまで頑なにオリジナル版の展開を踏襲してきたのが一変、正に庵野印の「エヴァ」風味な独自路線へと急激に舵を切りだし、ゼットンのデザインや特性も「第10使徒:サハクィエル」を彷彿とさせる大胆なアレンジになっていたのには驚いたし、なによりそこで「ウルトラマン神変」カラーの「宇宙人ゾーフィ」を登場させてくるとか誰が分かるんだこれって感じだった。(羞恥心爆発🤯)

ちなみに、宇宙人ゾーフィは、とある出版社がどこよりも早く怪獣図鑑を出したいが為に、又聞きの曖昧な情報を書籍化した際に「ウルトラマンゾフィー」とゼットンが混同してでっち上げられた、誤情報が生み出した架空のキャラクターの事であり、ウルトラマン神変は、ウルトラマンの生みの親である「成田亨」がオーストラリア版ウルトラマン「ウルトラマンG」の企画の為にデザインするも、契約料で折り合いがつかずにお蔵入りしてしまったウルトラマンの事を指す。

要するに、今作を締めくくるラストエピソードは、正史とはまるっきり異なる誤情報とお蔵入りのキャラクターをミックスさせた完全オリジナルストーリーという事になるのだが、それを踏まえると「米津玄師」が今作の主題歌に「M八七」というタイトルを付けたのもなんとなく納得出来る。

M87とは、ウルトラマンゾフィーが唯一放てる「M87光線」の名前であると同時に、実は光の国の惑星名も本来は「M87星雲」となる予定だったものが、第一話の台本でのまさかの誤植が、そのまま本編で読み上げられた事が既成事実となり、今では広く知られる「M78星雲」が公式でも正式名称となったという経緯がある。

その逸話と、今作のラストを照らし合わせ、ヨネチャァンはタイトルをこのようにしたのではないだろうか?

余談

ちなみに、一番最初に出てきた禍威獣の「ゴメス」がシンゴジに酷似していた件だが、あれは元ネタである「ウルトラQ」のゴメスが「モスラ対ゴジラ」で使われたゴジラのスーツを改造し転用されたという経緯があって、今作もそれをオマージュして、あのようなデザインになったと思われる為「シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース」との関連性は現状不明である。

そして、今作では"名無しの権兵衛"として登場する「竹野内豊」。

彼の役柄は、シンゴジでも黒幕として暗躍するポジションだっただけに、もしかしたらシン・ユニバースのラスボスは、竹野内豊になるのかもと妄想してみる。

更に更に、次回作「シン・仮面ライダー」は正直超不安だ。

何故なら、庵野のお家芸である特オタで軍事オタで化学オタな知識を活かせる設定や環境が、仮面ライダーにはゴジラやウルトラマンに比べて圧倒的に少ないからだ。

今作上映前に特報が流れたが、あまり期待せずに待った方が良い気がしてならない。

だけど、また竹野内豊が出てくるようならそれはそれで面白い。
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