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シン・ウルトラマンの3110133のレビュー・感想・評価

シン・ウルトラマン(2022年製作の映画)
3.0
他人に手渡しても作品になるとき

脚本のみだったらとても良かったのかもしれない。ウルトラマンという存在を前提として、シュタイナーやレヴィ=ストロースの思想といったアイテムもワクワクさせる。


だが、この映像を映画しての作品とはとても思えない。
絵画はエスキースを拡大転写して着彩しただけのものではない。
エスキースの段階で予感したものに、もう一度キャンバスという場において出逢い直すこと。
その予感は一瞬だけ姿を見た気がするような。よぎる。
場合によっては最初に出逢うことを予感したものとは異なっているかもしれない。場合によってはエスキースとは異なったものとなった場かもしれない。それでもそれに出逢うことで作品になるのだろうと思う。

エスキースで嗅いだ匂いを頼りに、暗闇のなかで探すようなものだ。神経をとがらせ、出逢えるはずだと信じて。
その行為はエスキースを描くことと同じ。だからつねに制作なのだ。製造でなく。
質量形相論モデルは否定される。形相はあくまでも予感に過ぎない。わたしたちは質量のなかで(質量とともに)、予感を信じて出逢い直すことが求められる。

この映像がどこから庵野氏の手を離れたのかは知らないが、脚本の段階で予感したことは確かなのではないかと思う。

しかし映像が酷すぎる。
脚本を映像化しただけではそれに出逢うことは叶わないだろう。画像や音の質感やリズムといった諸々の造形要素が稠密な関係を持つことで初めて出逢うための場が生じるのだから。
オリジナル・マンや庵野節ともいえるようなテンポや構図やトップをねらえ!といったセルフオマージュさえも関係性を持つことができずうわ滑っていく。
監督は制作者ではなく製造業者として?やっつけ?樋口氏の体質?
作品を制作することを個人によってしか成立しないとは思わない。共作や委託でも制作は可能。
しかしこれはちがう。

マンもトップも庵野氏の他の作品も今回のテーマも好きだからこそ、この映像を嫌悪する。

わたしが子供の頃再放送されていたウルトラシリーズに夢中になった。帰ってきたとセブンの質感が好きだったが、タロウには特別な憧れをもった。
母親とタロウを同一視していた感触をよく覚えている。
絶対的な存在に憧れ、それに守られているという絶対的安心感。
体が大きくなるにつれ、いつかはそれに成れるのかもしれないという希望と自身の未熟さへの苛立ち。
いつのまにか当時の母と近い年齢になり、それが絶対的なものではなかったということへの気づき。
その目線から翻って子供たちは未熟な存在なのではなく、それはそれとして完成された瞬間を生きていることへの驚きと興味。知ろうとすること。
シラスこと?

人類がウルトラマンにみたもの、ウルトラマンが人間にみたものはいくらでも異なったスケールを行き来して繰り返されている。
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