YasujiOshiba

シン・ウルトラマンのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

シン・ウルトラマン(2022年製作の映画)
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アマプラ。劇場には行きそびれた。キャッチアップして思うのは、やっぱり行かなくてもよかったってこと。悪い映画じゃない。むしろ、血湧き肉躍った。これに憧れていた自分を思い出した。ぼくより年下の俳優たちの演技に、かつての大人たちの演技を見上げていたころの自分を感じた。

これは娘たちを誘ってゆく作品じゃない。ひとりで見るべき作品だ。だから映画館でなくてもよい。むしろ、自宅の画面でひとり浸ればよい。かつて、病院の暗闇の中に輝くブラウン管を前にドキドキしたように、そこでよく出来たマガイモノの活躍と、マガイモノの言葉に耳を攲てるのだ。

それにしても、ゾフィーとの会話にはまいってしまった。わからないなりにわかろうとしていた子どものころの自分と、もうすっかりわかりきっているのにまだ認められないでいる今の自分が、ふしぎに重なってゆく。まるで光の国からきた外星人ウルトラマンと、その到来によって命を落とすことになった地球人神永新二が、あの「ベータシステム」よって融合するような感覚。おそらくはそれが、ウルトラマンの主題なのだ。

接触と融合、あるいはコンタミネーションから、なにか超越的なもの、つまりウルトラ級のものを目標としたのが、1960年代半ばまでに戦後の日本が目指したことだった。だから、1964年の東京オリンピックで日本の体操チームがウルトラ・Cと呼ばれる超・高難度の技を次々と披露してみせたとき、ああこれこそが、自分たちの目指すものなのだと思えたのかもしれない。

そして、当時の日本にとってのウルトラ級のものとは、独自の伝統ではなく、海の向こうから到来するものであり、だから舶来品が高級品の代名詞だったのだ。けれど、体操の選手たちは、海外からの高級品なみのクオリティーを、みずからの肉体で実現してみせてくれた。体操競技という外国からのものを、学び、取り込み、本家を抜き去り、独自のものとして提示してみせてくれた。

だからウルトラマンは、一義的には外星人でありながら、その肉体は地球人なのだ。そこには、外国人でありながら日本人であるような、あるいは日本人でありながら外国人並みであるようなという、ぼくたちの生きたあの時代のある種のコンプレックスがある。ある種の劣等意識がある。そしてそれゆえのルサンチマンが働いている。

しかし、そのルサンチマンが力となって威力を発揮することが、おそらくは人類の歴史なのだろう。ルサンチマンが働くところは、異質なものがコンタクトし、優劣を決する葛藤の向こう側だ。そして、あらゆる文化は、そんなコンタクトゾーンに、みずからの表現を高めてゆく。

なるほどそうだったのかと、今だから思える。ウルトラマンは、ぼくとぼくらの物語だったのだ。
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