しおまめ

1917 命をかけた伝令のしおまめのレビュー・感想・評価

1917 命をかけた伝令(2019年製作の映画)
5.0
ついこの前に「この世界の <さらにいくつもの> 片隅に」を観たためか、「1917」は戦場に行った若者たちの物語という対極の印象を強くもった。
そういう見方になったのは、ほぼ全てワンカット長回しで主人公たちを追い続けたリアルタイム性ある手法。それによって生み出される没入感によるもの。
「この世界の―」が主人公のすずに寄り添う形で描かれた作品なら、この「1917」も同様に主人公のスコフィールドに寄り添う形で描かれた作品と言える。
ドラマを描く上で省かれがちな些細なやり取りや出来事も描くドキュメンタリー的な描き方は、悪く言えば抑揚の無いものになりやすい手法の一つとも言えるかもしれない。
けれども今回の「1917」は、物語を我々観客に見せるという意味では、作品的にも娯楽的にも、物語ることに忠実な“映画”だった。


ほぼ全編ワンカットの長回し撮影は、カメラが極端に低い位置になるか、何かしら建物から移動する際に高い位置になる以外は人の目線の高さであり続ける。
舞台となった1917年の第一次世界大戦は、弾丸を避ける環境を人工的に作って前進する塹壕戦がとられたため、戦場を一望するようなことはほぼ出来ない。カメラの位置を人の目線の高さと同じにした今作は、周りの状況がわからないという主人公たちの環境に観客も陥る一体感が生まれている。
しかし、前線にあたる位置まで塹壕の中を進む描写をして、
狭い塹壕の中で端に身を寄せて眠る兵士や、突貫で作られた生死に関わる注意書きの数々。増える負傷兵の数や軍人としての体裁を崩して疲れきった表情の兵士たちといった具合に、塹壕を進めば進むほど、見えないはずの前線が非常に危険なものであるという間接的な恐怖感を抱かせる。
見えないにも関わらず、塹壕の外へと出る瞬間は誰もが怖いと感じる。
この直接的ではない間接的な恐怖感はジャパニーズホラーに似ていると言えるかもしれない。

この、いつ何が起きてもおかしくない不安な気持ちを観客に最初から与えたことにより、一見すると凪とも言える穏やかなシーンでも身構えてしまう。それは戦争という時代背景や見えない敵の存在といった設定の賜物でもあるけども、何より冒頭に描いた恐怖感があるからこそ成り立っているもの。
その中で命を救う、救われるといった様々な出来事が、クライマックスにおける主人公の“走る”ことの意味を大きくさせ、観客の感情を揺さぶる。
臨場感や手法のおかげだけじゃなく、それまでの出来事や主人公の気持ちがあるからこそ、あの“走る”という行為に意味が出る。
しかもその“走り”が、目の前で今まさに無駄なものになるかもしれないという希望と絶望が混在する状況が何よりも胸を締め付ける。
巷では手法や設定などから(ポジティブな意味としても)ゲーム的と言われる今作ですが、あのクライマックスは積み重ねから生じるエモーショナルなシーンで観客を魅了するという、物語を作る上で欠かせない根本的な部分の素晴らしさであり、
映画の模倣も可能となり、「映画のよう」がもはや珍しくなくなったゲームと形容されるには相応しくない。
ドキュメンタリー的なビジュアルや時間の流れでありながら、映画らしくエモーショナルな部分も欠かせない作りに、まんまと感情が動かされてしまった。


100年前の第一次世界大戦に従軍した軍人は亡くなり、証言者はほぼ0と言ってもおかしくなく、風化が進んでいる。
日本では特に被害が大きかった第二次世界大戦を取り上げることが多いが、第一次世界大戦に日本は参戦しており、「1917」の舞台となった4月6日というのはアメリカがドイツに宣戦布告した日。
全世界を巻き込んだ最初の戦争であり、戦車が初めて実戦投入された戦争であり、現在の中東情勢を半ば決定付けた戦争であり、現在のあらゆる技術、社会情勢の土台となった戦争でもある。
そして、忘れ去られようとしている。
この作品がサム・メンデス監督の祖父の話を基にしたものであり、映画として不特定多数の観客に向けることは、
祖父から孫、そして我々へと、忘れ去られようとしている第一次世界大戦の“口伝”として作られたものと言ってもいい。
誰もが「無事で戻って」と願ったあの戦争を伝えるために。
しおまめ

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