ニューランド

君は愛にふさわしいのニューランドのレビュー・感想・評価

君は愛にふさわしい(2019年製作の映画)
3.1
☑️『君は愛にふさわしい』及び『海辺の恋』『地上の輝き』▶️▶️
コロナの関係なのか、連絡が取れなくなった、恐らく鑑賞本数·感性レベル·分析精度、日本で1、2を争う映画ファンがいる。昨年横浜で、日仏の「批評月間」が再映され、日仏自体では日程やシステム変更で殆んど観れなかったので、朗報と『宝島』『リベルテ』『ワイルド·ボーイズ』という三傑作をゲット·納得で鼻高々でいたら、一番いいのが抜けてると云われた。再々映はないだろうと、タイトルを書き留めなかった。確か「愛」か「美しい」が確かあった筈と足を伸ばす。
該当作2作のうち、1本は仕事とカブり、1本だけ。しかしこれではないなと見始めてすぐ分かる。白人ではなく、アラブの血がはいってるような若い女の、人種差異は関係ない恋愛模様の中、一度別れたのに苦しんでるを放っとけなくなると、男は別の女といて自意識の傷で燃え上がり、その女も誰もが最低の男と見放してくのに、彼女は意識の上で呆れたその男に振り回され続ける。彼が気紛れか一念発起か、フランスを離れた間もそうで、別の相手を何とか探さんとする。が、自分より若い写真家との間に、帰国してた彼が、上から目線で割り込んで来る。「盲目的に代償を求めてく事の、意義のなさ」をやっと、実感として身に付け、フラットに謙虚に交際始点を改めて拡げてく彼女。スコープサイズのデジタル·色彩薄く即物的なトーンの、日常を自在に軽く動きつづけるカメラが捉えてく世界。悪くはないが、英気はない。
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先の人や、他にいま最も鑑賞密度·多彩の度合いで先頭にいる人が別々にだが、最も才気に欠ける、近年の再発掘作家として挙げていたのがジルだった。だから、東京から遅れて横浜馬車道での再映で押さえた私も期待は薄く、寝不足のまま臨んだ。今回も、12時半という普段なら仕事を終えて、寝てる真っ最中に寝不足で駆けつけることとなったが、コンディション·バッドも重ねれば、少しは見え来るものもあるだろう。前回プルーストに言及しているのは、何かの聞き齧りだったのだろうか、覚えてないが。前回、ゴダールの『恋人のいる時間』と比較した作は今回、時間の都合で観れなかったけれど、再見できた2本に関する限り、キーワード、作家的体質は、やはりレネをすぐに並べたくなる。所謂モンタージュや意識の並べ方の、精緻さ·飛躍と土壌だ。更に云うならば、『海辺の恋』はよりリリカルに謳い上げるレネ+ドゥミ、『地上の輝き』は意識と観念の土壌に沿い、レネ+マルケルという比較·進展が出来、認められる。
実際、モノクロとカラーパートを使いこなし、交錯もさせた『海辺の恋』は音楽の優しさ·切なさもあるけれど、カラーパートの浜辺の海水浴場の簡易小屋並びや軽く纏った物の赤·白·青等の原色の鮮やかさ·詩的なもの、モノクロパートのミュージカルナンバー如く踊るように路上に繰り出す水兵らの数が時の推移·進行の度に増え、拡がってゆくイメージは、ドゥミを想起せざるを得ない。時間の経過の度に、人物らの手紙的ナレーションが、愛と幸せを確認する毎に、繰返しの日常的疲労と空洞の、予感·実感が、繰り返される頼りなさ·アンニュイもそうだ。それらがモンタージュされる時の、ズーム大きめや室内まさぐり自在大胆移動·パンらの執着感もあるけれど、基本細部を裁断し·離れた要素を一気近づけてはまた戻し·往き来を長短スパンで組み合わす、飛翔定着感はレネだ。駆け来る姿等の、レネ以上に、対象を外れずも·少しだけ中心など位置をズラし·角度やサイズを変え、細かくモンタージュし直し一斉な並べるのも、ファッションに見えて、本質的な存在·行為の多元性を表してる、対象が中央から端に追いやられた図も当たり前のリズムの中で。無関係に見える、時制や場の大きく隔たった、関係するも今の会話を大きくはみ出してる切り替えモンタージュもだ。カフェ内·内外、歩きまた思索、の一般叙述のデクパージュに近いカッティングも、同じ段差と統制再構成がある。顕微鏡で捉え追う感覚のCUの使い方もそうだ。
敢えて鮮やかさを削いだくすみ暗めトーンのシーンも、(二つの向かい·縦め)窓枠や鏡写り取り入れ、水面とそれへの写りも、俯瞰や(窓以外の)枠や人越しも、。偶然の意図せぬ再会も好転には向かわず·重ね来た疲労の到達が最終優るのや、主人公2人だけではなく、その友人らの手紙的モノローグシーンに移行·パートを任せ、また戻る、辺りは2人の作家に共通する、濁り自体のクリアな取り出しか。
女が帰郷中に海水浴場で出会って恋を誓った2人、男の兵役5年の最後1年の赴任地へ向かう間の短い休暇で、女が勤めてるパリで再会す2人。残り1年は手紙のやり取りが中心となるが、彼女や·古物好きの 彼女の同僚に 近づいてくる男や、彼の後輩でとりわけ彼に得難い親しみを抱く男の兵役に就く前のパリでの執着と無為、らの語りも並列的に割り込んでくる。1年経ってパリに来た男は、冷めていってる心をもてあまし、逢いに行かないが、偶然に再会。女は希望叶って喜ぶが、男は2人の温度差を説明する。女の故郷近くの村で想いにふける男。「愛から幸せ続く生涯へ?」「各々に趣味、自由」「(再)会う前に(心は)死んでいた、このまま一緒へは」
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『地上の輝き』、冒頭は、異国のパリに似せた建築の案内模様だったか、働いた事もなく、友人らは多いが、彼について細かく知っている者はいない。父との関係も、その期待に応える未来の選択を考えていない若い男が、かねてより計画の短期のチュニジア旅行に向かう。母が若くして亡くなるまで一緒に暮らしてた年少の時代、住んでいた地だった。母のゆかりの人、母の友人らを訪ねて、自分の方の事はあまり喋らないまま、母の儚さを裏切る生き生きしたイメージの醸し出されや、各々の人間性·生き方の意外のしぶとさに引き込まれて、滞在は伸びる。片側通行なのに、相手は彼に親近感を覚え、再会·近く戻ってくることを約させたりする。手紙を受け取り、パリに戻る。出立直前に、彼に質問し、直ぐ戻るからと答えを中断していた相手、17才の少女~得難い素直な友人の一人が事故死したのだ。
ここでのモンタージュ感覚は、鋭さ·ズレて新しい観点を発見させ続ける溌剌としたものではない。既に存在してるを了解してる空間·自然·人のより着実な押さえの確かめ、その感得の地味·裏からの力の伝わりといったものである。ここでも、若者は現れてくが、はみ出したり外へ模索していく者ではない、ただ自分をつくってるものを確かめんとする者ばかりである。全体も、向き合い対応するの個々の寄り押さえも、建築·建造物も、自然も、その木々も、それらと人間らのたまたまの収まりも、一面動き始め流れる船からの視界の海面も、全てを観点の異なる部分として、絡まる発展性を持たぬものとして捉えてく。落ち着いた構えの時もある、細かく意味を現さぬカッティングへも普通に移る。それがそのまま観てるこちらに沿い、張り付いて、こちらの現実以上に定着化してくる·厳かに、軽いパンなどあっても。『海辺~』にはあった、刹那で狂おしく 求め·またそこに違和を感じる冷め、といった映画感情はここにはない。ひたすらに自己に沈澱してる何かを感じ取ってゆくだけである。その元の事実は必ずしも明確にはならない。現在も過去も写るイメージは必ずしも強くない。しかし、掴めずボヤッとしたままのアイデンティティを何気に本能的に流れまかせに制限なく求めてく主人公を、昔と今を聞かれる所縁の人たちはその姿勢において、故国の意味を民族·歴史から生理的·感覚的風習への馴染みに移してる自分を自覚してきてる分、彼を自然な過去から未来への固有の故郷を共有してける、気兼ねのない自由へ繋がる、淡くも間違いのない同伴者·共犯者とみてゆき、それをさりげなく確認してく。その手触り·温度の情勢下は観てるこちらにも、不思議にスリリングで心を強め、熱くしてくれる。「(あなたの事の方を)もっと話して。またすぐ戻って来て」
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