イホウジン

マトリックス レザレクションズのイホウジンのレビュー・感想・評価

4.4
飼い殺すマトリックスから飼い慣らすマトリックスへ

個人的に『マトリックス』への違和感を抱いていたので、それを制作陣側も共有していたことに少し驚かされたし安堵もした。
この映画について考えるにあたっては、第1作が公開された1999年と現在、そして第1作の観客による受容について振り返ることが不可欠であろう。
1999年について言えるのは、反グローバリズムと世紀末的な空気が漂いつつも9.11以前であるという絶妙なタイミングだ。冷戦崩壊後の「敵」を喪失した世界の中で行くあてもない暴力が彷徨う様は、同年公開の『ファイト・クラブ』にも言える話であり、こちらの場合は「敵」をグローバル化した資本主義に設定し、それと対立し抗うことを登場人物らに求めた。『マトリックス』もまた同様に、サイバー空間の身体と現実世界の身体を二項対立的に捉え、後者が前者を打ち砕く必要性を述べた。
だがそんな対立軸は、今となってはほぼ無効なものになりつつある。パソコンの画面は緑1色から現実世界にも劣らない4K画質に様変わりし、スマホの登場はサイバー空間と生活世界の垣根を崩すものとなった。重要なのは、確かにそれによる弊害があるのもまた事実だが、それを遥かに上回るほどの恩恵を私たちは受けているということだ。ビッグデータに代表されるMr.アンダーソン的なものの存在を知りつつも、それでもなおインターネットを使い続けるのは、どこかで私たちがそれとの共存を選んでいるからであろう。故に第1作のようなアンダーソンとネオのプロレスは、もはや古臭いものとなってしまったのである。
もう一つ考えなくてはならないのは、2022年現在、『マトリックス』が提示した様々な問いが“悪用”されつつあるという点だ。第1作における「覚醒」というテーマは、今になって見直すとかなり陰謀論的なノリに近いことが分かるし、劇中の「レッドピル/ブルーピル」は本当に陰謀論界隈のキーワードとして機能してしまっている。こうなってくると、第1作が追求した“本当の”身体を追い求める行為が実はかなり紙一重なのではないかということを考えざるを得ない。前述した『ファイト・クラブ』では、まさしく“覚醒”した登場人物らによって高層ビルが爆破されるが、その2年後に本当に高層ビルを破壊する連中が現れてしまった以上、現実世界の問題の暴力による解決という方法論はとっくの昔に無効になるべきものであった。
なので今作はどことなく、第1作における①現実とネットの二項対立の問題化②その闘争による解決 に対する反省の上でスタートしたようにも見えてくる。

映画の冒頭は第1作と同等かそれ以上に観客を?だらけにする。なんとこの物語の世界は『マトリックス』の三部作が大ヒットしたという設定(というより観客のいるこの世界そのもの)だからだ。そのうえトーマス/ネオは、第1作のようなクールな風貌ではなく、20年分歳をとったキアヌ・リーブスそのものだから、今観ているのが『マトリックス』の続編なのかキアヌのドキュメンタリーなのか、本当にわからなくなる。
このパートで重要になる言葉は「バレット・タイム」だ。これは第1作のハイテクで派手な例のアクション・シーンを指す言葉であるが、ここで暗に問題視されているのは『マトリックス』の記号としてあのシーンが独り歩きしてしまった点であろう。観客はネットとリアルの身体の相違をめぐる批判的考察ではなく、いかにもハリウッド的なアクションを求めているということだ。
故に過去作の「バレット・タイム」が好きで、CGが極限まで発達した現在のそれが観たいと願った観客にとっては、今作はきっと肩透かしであっただろう。確かに映像は相変わらず圧巻だが、前作のキャストは老いてキレに限界があるし、何よりアクションの一つ一つが地味だからだ。
だがその凡庸さはどこか意図的なものであったようにも見受けられる。それが表れるのは、今作におけるトリニティの一連の描写だ。
第1作では世界を変える原動力がネオにあるということが重要な要素となっていたが、今回は彼だけでなくトリニティの力にも焦点が当てられる。そしてそれを発現させるために、前作にはなかった、彼女を「目覚めさせる」というイベントが発生することになる。ここで起こるトリニティの「家庭からの解放」が第1作のネオの「社畜からの解放」に対応する点が、まさしく今作の過去作との転換を示すものになっている。ネオのそれが極めて権力を暗示するものであるのに対し、今回の場合は愛や結婚制度など、より抽象的な規範の次元にまでシステムの暴力を見出すからだ。この「社会規範の範囲内において」自由や主体性を承認しているシステムが今回のマトリックスの象徴であり、ネオやトリニティが倒そうとする2020年代の社会の姿であると考えることが出来る。
なので今作のマトリックスの描写は、過去作のような青みがかったものがなく、私たちのいる世界と遜色ないものとなっている。人間は一定程度自由に動いており、もはや「飼い犬」とは呼びづらく、幸福度も高そうだ。だがそんな社会が本性を現すのが、終盤に登場する「bot爆弾」だろう。人間が突如として人間あらざるものとして(まさにシステムのロボットのように)動き出す様は、なかなかに怖いものがあるし、また物理的か否かの違いだけで、同様のことは現実世界にも起こっているという事実にまた恐れざるを得ない。なのでどんなに鮮やかに着色されていても、マトリックスがマトリックスである限り、それは人間にとっての脅威なのである。

(フーコーの如く)抑圧への眼差しは常に社会の見えざるシステムを可視化させるということなのかもしれない。
イホウジン

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