このレビューはネタバレを含みます
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つまり、あの劇中映画というのは、あくまでも町子の価値基準と物差しで、必要か必要でないか、映画になるかならないかを判断して、取捨選択し、作り上げられた映画に過ぎないのです。
そう考えると、イハが「青のカットがあった。」と彼に報告したのは、嘘ではなかったのだと思いました。
なぜなら、イハの「ファイナルカット」の中には、確かに青のカットがあるからです。
つまり、人間の数だけ「ファイナルカット」が存在し、誰かには必要とされない人間も、他の誰かには必要とされ、価値を見出されているかもしれないというのが、『街の上で』という作品に通底する考え方なのだと思います。
映画のラストに、映し出された賞味期限切れの誕生日ケーキ。
冒頭の青と雪が部屋にいた別れの場面でケーキは何の役割も持てず、食べられることなく冷蔵庫に閉じ込められてしまいました。
しかし、時が流れ、映画のラストで青と雪が再び付き合い始めた場面では、賞味期限切れにも関わらず、そのケーキはようやくケーキとしての役割を全うするのです。
必要ない、無価値だと思われたものにも、特に価値が宿ることがある。
それは、「賞味期限切れのケーキも案外いける」というような発想なのかもしれないと思わせてくれます。
こうした考え方が通底した『街の上で』という作品ですが、要所要所でそのメタ映画性をサポートするような演出が見受けられました
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しかも「映画の控室」でしかなかった場所が、今度は「映画の舞台」へと転じて知るのですから面白いですよね。
つまり、あのイハの自宅という空間は誰かにとっては、「映画撮影のための控室」であり、誰かにとっては「友人の家」であり、そして誰かにとっては「元カノの家」であり、そしてイハにとっては「自分の家」なんですよね。
人間だけでなく場所や物もどんな設定を与え、どう価値を付与するかによって、その存在意義が変化していくというのが映画の醍醐味なんですよね。
今作が「街」の映画として洗練されているなと思わされたのは、下北沢という場所をそこに生きる人間の物語の「器」として描いた点だと思っています。
「街の上」では、たくさんの人間が生活をしています。会話をしています。恋をしています。失恋しています。仕事をしています。食べています。音楽を聴いています。タバコを吸っています。
物語の器としての街。
住民を演じる住民。
そうした人間の数だけ存在する膨大な物語の器としての「街」を今泉監督は、メタ映画的なアプローチから描き切ったのです。
私たちは自分の人生の「編集」の権限を持っています。
自分にとって本当に必要なものは何なのか、価値のあるものは何なのか。
そして、大切なものは誰に何と言われようと、大切なのだと口に出さなくてはなりません。
賞味期限切れのケーキなんてやめておけよと言われても、自分にとって意味があるなら食べれば良い。演技が下手だったと断罪されても、自分にとってそれが愛おしいと思えるならば使えば良い。
大切なものは、人間の数だけあって良い。
『街の上で』という作品は、見終わった後にそう思える優しい映画でした。