なべ

グリーン・ナイトのなべのレビュー・感想・評価

グリーン・ナイト(2021年製作の映画)
3.6
 元々は韻律に基づいた英文学。言葉選びやリズムにこだわった古典なので、英語で味わうのが本筋なんだろうけど、そんな英文スキルは毛頭なく、翻訳された「サー・ガーウェインと緑の騎士」を大昔(たぶんファンタジーがマイブームだった80年代)に読んだ。古典にありがちなわかったようなわからないような話で、ほら、古文の時間にやった伊勢物語なんかとおんなじ。
 「昔、男ありけり。女の得まじかりけるを〜」って、受験制度の呪いでいまだに覚えているのが忌々しいが、恋人が鬼に食われてるのに気づかない男の話があったでしょ。洞窟の奥で鬼にバリバリ食われるところをもっと細かく、雷鳴で気づかぬ男の間の悪さをもっと掘り下げて書いてくれよと思わなかった? 古典って奇想天外で赤裸々なのにディテールが甘々。グリーンナイトもそんな感じで、誰が何のためにそんなことをしているのか、実に不可解だ。あまりの不可解さに、これは何を仄めかしているのだろう?なんのメタファーなの?と勘繰ってしまいそうになる。勘繰るも何もそういう話なんだけどね。ここは深読みせず、モヤるところは古典だからと諦めて先に進むのが吉。
 原作を読んだのは遠い昔なので、さすがに細部は覚えておらず、事前にウィキって臨んだのだが、観てるうちにいろいろ思い出してきた。なるほど見応えある(でも眠いぞ!)歴史ファンタジーじゃないか!と。
 ガーウェイン卿のキャラがかなり軽薄に変更されてたのはOK。現代人が見ても違和感のないようにする工夫のひとつだと理解した。原作のガーウェイン卿は立派な円卓の騎士の一人なのだが、騎士になる前の未熟者にすることで、成長譚にしたわけだ。
 しかし、朴訥とした語り口のまあ眠いこと! 全編曇天なのも眠気にさらに拍車をかける。室内も概ね暗いし。アバターの予告編の夜のシーンの方がまだ明るい。この異常な眠さはてっきり英国人監督に違いないと思ったんだが、デヴィッド・ロウリーは生粋の米国人。マジか、米国人の快活さなど微塵もないぞ。A24ってほんとすごい才能(催眠度もすごいが)を見つけてくるな。
 ハリウッドのメジャースタジオなら絶対やらないジトッ&ジメッとした仕上がり。ディズニーやマーベルのお祭り映画はもういいやって方にはぜひオススメしたい。だがたっぷり睡眠をとってから観たほうがいいぞ!
 以下、ネタバレがあるけど、ぼくは予備知識を持って観た方が断然楽しめると思う。古文の授業も予習して受けた方がわかり味あったでしょ。あの感じよ。
 大筋は原作通りなんだけど、ところどころあれ?微妙に違うぞってところがあった。
 例えば、言葉巧みに城主の后がガーウェインを誘惑するシーンがあるんだけど、これ、原作だと后がガーウェインを狩ろうとしてるのがとてもよくわかるのね。“城主が狩猟に勤しむ一方でお后はベッドでガーウェインを狩ろうとしていた”的なあからさまな叙述でさ。城主の狩のシーンと后の誘惑が交互に描かれてる。一流の騎士の嗜みとして狩の様子を事細かに描写したかと思うと、一流の騎士の嗜みとしてのベッドテクを見せて欲しいわとねだる后、みたいな。えげつない対比がおもしろい上に、后の下ネタ攻撃がエロい(しかも三日間続く)ので、他は忘れてもここだけは覚えてるっていうね。
 城主はガーウェインのために、狩で獲物を仕留めてくるから、代わりにガーウェインも城で獲たものを自分によこせと交換の約束をするのは同じ。逗留中の城宿で何を獲るっつーんだよ?って思うよね。城にお土産コーナーがあるわけもなく、后の誘惑をうまいことはぐらかし、“円卓の騎士にあるまじき行為”に陥らぬようがんばるわけだ。根負けした后から「今日はこれくらいにしといたろ」とチューを授かり、これを獲得したものとして城主に返礼してるわけ。これ、映画観た人わかったかな? ちょっと説明不足に感じたけど。てかあれだとガーウェインは城主に手コキしないとダメなことになる。原作ではちゃんと3回城主と(もちろん后とも)キスしてる。映画では一回だったけど、顎に手を添えるなかなかいいキスだったよね。
 そしていよいよクライマックス、緑の礼拝堂で映画版は大きく原作と異なる展開に。
 覚悟を決めて緑の騎士に首を差し出すも、いざ斧が振りおろされる瞬間に、ガーウェインはビビってちょっと待ってと怖気づく。二度目も同様。三度目の正直かと思ったら、やっぱりビビって逃げちゃう。えーーーーっ、原作と全然違うじゃん。逃げたらあかんやろ!
 キャメロットに逃げ帰り、その後の人生が描かれるも、騎士道を貫けなかったガーウェインに明るい未来はなく、敵国に攻め込まれ、最期の時を迎え、腰のサッシュをほどいた瞬間、首がゴトリと落ちたのでした…って白昼夢を見る。夢オチかーーい!
 慌てて、ちょっと待てとサッシュを解いて差し出すと、緑の騎士は
「よくやった、若き騎士よ。その首を持って(つまり断首しないで)帰るがいい」と言われてお役御免。うーん、これじゃ終わらなくない?
 ちなみに原作ではこう。緑の騎士は差し出された首に斧を二度振りおろすも寸止め。三度目、ついに斧は振りおろされるが、首に傷をつけるにとどまった。
 ここから緑の騎士は種明かしを始める。城主は自分だったこと。后の誘惑も自分が仕組んだことだと。二度の寸止めはガーウェインがちゃんと交換の約束を守った結果であり、三度目は后の贈り物のサッシュを差し出さなかった戒めとして傷をつけたと。つまり、大目に見てくれたわけ。この緑の騎士の寛大さに対し、ガーウェインは顔を真っ赤にしてめっちゃ言い訳をするのね。かつての神話の英雄も偉人たちも誘惑に負けたんだから、自分も仕方ないってね。ははは、それ騎士道ちゃうやん!でもとりすました騎士よりずっと人間らしい。ここに来てやっと生身のガーウェインを見た気がする。それくらい弾けた描かれ方をしてて、とても好きなシーンだった。
 さらに緑の騎士は城に住むモルガンが魔法をかけて自分をモンスターにしてたことも明かす。モルガンというのはアーサー王の物語にちょいちょい出てくる魔女(作品によって女神だったり邪悪な魔女だったり、巫女だったりする)。つまりは魔女がアーサー王に仕掛けた死のゲームに、若い騎士がうっかり名乗りを上げて酷い目に遭ったって話なのだ。
 ところが映画ではモルガンは出てこない。代わりにガーウェイン卿の母親が魔女ってことになってる。これはどういうことか。
 冒頭でアーサー王に「そちの物語を聞かせてくれ」と言われたときに、語るべき物語がないと返すシーンがある。騎士たるものおもしろ話のひとつやふたつあって然るべきと思ったのか、経験値のない息子に、奇怪な冒険譚を経験させてやったと理解すべきなのだろう。でも気色悪いんだよな。自分が構築した出来レースなのに、結構危うくてさ。下手したら死んでるやん!と。死なないように持たせたサッシュは盗賊に奪われ、でも城の后に再度もらえるとか。適当か!
 と、ここまで知っててこそ「グリーンナイト」は大いに楽しめた作品だったが、予備知識なしではたしてどこまで楽しめるんだろう。楽しみ方のひとつとして、ギャグのないモンティ・パイソンだと思って観るといいって、我ながらいいアドバイスをひらめいたと思ったけど、もはやモンティ・パイソンがわからないんだよなあ!
なべ

なべ