しの

アフター・ヤンのしののレビュー・感想・評価

アフター・ヤン(2021年製作の映画)
3.5
これはSF設定を利用して「喪失の疑似体験」をさせる映画だと感じた。人間がどのように存在しているのかということを、ロボットの記憶を覗き見る行為の反復によって浮かび上がらせる。そこにお茶という東洋的モチーフが加わり、映画全体が禅のような静謐さと思索の営みになっている。

他人の人生を覗き見る映画という媒体でロボットの記憶を覗き見るという入れ子構造を、アスペクト比の変化および構図、フィックスか否かで示す作りは分かりやすい。特に注目すべきは、記録映像ではない普通の場面において、誰かが遠くから覗き見ているような構図を多用していることだ。これによって、ヤンがその人生の一瞬一瞬を記録していったように、この瞬間も誰かの記憶に蓄積されていくのだということが無意識的に知覚できるような構造になっている。

それを最も端的に示すのが、作中で二箇所ある「思い出す」シーン。ここの表現が素晴らしく鮮烈だった。客観的な引きのフィックスから主観的なヨリの手持ちに変わり、ヤンから見た視点と他者がそれを思い出す視点、すなわち「見る/見られる」の視点が融合していく。記憶の糸を手繰り寄せるプロセスそのものだ。そして、これこそまさに「ハーモニー」が生まれた瞬間だろう。

つまり、神の目を持つ観客が眺めているものでしかないこの映画という「記録」(それはラストで本作の映像自体も「停止する」ことで強調される)が、その中に生きる登場人物の「記憶」によって主観的に切り取られ、それぞれのハーモニーを奏でていく。ヤンの「記録」を眺める登場人物と完全にパラレルな構造であることが分かる。その意味で、彼は映画を生み出す装置だったとも言える。更にここに小津調のビデオ通話映像=この映画という記録の中の記録も入り、よりメタ視点が際立つ。

とはいえ、ヤンの単なる記録映像は、人の記憶のようでもあるというのが面白いところ。彼の視点は、我々が喪失した誰かの視点の疑似体験でもあるのだ。あの人にも、こんな風に自分の知らない人生の記憶があったり、それが自分の人生と重なる瞬間があったりしたのかもしれない……そんなことを思う。

このように、不在の他者を思い出す行為によってその他者と共に在った時間が顕現するという(「無によって有がある」)現象、そんな時間がその他者にも確かにあったはずだという祈りを映像化していると同時に、単なる記録がその主体の存在によって記憶たりえることも体感させてくる。なので、自分はこの手のSFにありがちな「ヤンは人間と言えるのか」みたいな実存的な問いを本作が提示しているとは思えず、むしろ彼は「人間の記録が記憶になることで、喪失した他者をも繋ぎ存在させる」というプロセスを疑似体験させるための装置であったと思う。スパイウェア周りの設定を詰める気がないし。

正直、こうした構造の話にばかり気がいって、喪失の疑似体験映画としてはアクチュアルに響くものがなかったが、思索をそのまま映像化する為にSF設定すら割り切って利用する姿勢は面白かった。
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