海

アフター・ヤンの海のレビュー・感想・評価

アフター・ヤン(2021年製作の映画)
-
スーパーマーケットの出入り口へ向かっていると、西陽がまっしろで、なにもみえないくらい眩しくて、するとチリンチリンチリンと鈴の音がきこえて、それが不思議すぎて、わたしだけにきこえる音みたいで、何の音だろうこれはと考えていたら、真っ白い光の中から幼い男の子の影があらわれて、顔は見えなかった、その子はおかあさんと手を繋いでいた、ふと右を向くと、そこは自転車屋さんで、小学生くらいの男の子が、黒い自転車に跨ってお店の人と家族にかこまれて、笑顔で、たまにその指が警音器にふれていて、チリンチリンと鳴っていて、ああ、この音だったんだと気がついた、こんなに何も不足していないような瞬間がまだ、わたしの人生に起きるんだ、そうおもって、心が、すべてを手ばなしたあとのようにおだやかになった。いつも心配なことがあって、いつも解決したいことがあって、いつも、向き合わないといけない悪いものやまだわからないものやそれに付随する負の感情がある。だけど、わるいものを連れているのは、いつだって、どんなときも、わたしの愛しているものだ。あいするものが何一つ無かったら、憎むべきものも、何一つ無かったとおもう。どうして、怒らないといけないのか、どうして、悲しまないといけないのか、しないといけない理由も、しないではいられないことも、痛いほどわかっている、わかっているし、答えがあってほしいものに、答えなんてないということも、わかっている。言わないのだとしても、言えないのだとしても、あなたは、じゅうぶんに、やさしい。ねえだから、どうしてそこにいるのかをおしえて。どうすればそこにいけるのかをおしえて。ひとしく、すべてに、行き渡った俯瞰と、ひとりひとりの、個人的な話に、手をそえてみつめることを、どんなふうにやれば、どちらにも誠実なままでできるのか、おしえて。おしえて、わたしよ、このひとがやさしいのはなぜかおしえて。わたしたちの持つ記憶が、わたしたちに今何をさせるのかということ。わたしたちの持つ心が、わたしたちに今何をみせるのかということ。コゴナダは、言葉にも物語にも形にもしようがないわたしたちの極私的な記憶というものを、そこに現すために、(みえないものをみえるようにするために、)建築物を、うつし続けているような気がする。わたしには、それがやさしすぎる。ひと以外の何かがまるでひとのようなのは、わたしたちがすべてを何かから学び真似てきた他ならぬ証しだ。わたしが書きつづけてきたこと、言葉を変えながら何度も言いつづけてきたこと、その文字と音の洪水、光りと静謐、影と響き、寝室のように静まりかえったこの街の空、海のようにわたしをなでていくこの窓の向こうの雨、わたしのきおくのはなし、せかいが、おもいださせるわたしのこと、わたしのこの声が外の世界に向かってずっとずっと泳ぎつづけていくこと
海