寝木裕和

ユンヒへの寝木裕和のレビュー・感想・評価

ユンヒへ(2019年製作の映画)
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美しい小樽の風景の中を、静謐に…かつ力強くなにかを問いかけてくる、心に深く染みる作品でした。

映画のみならず、とかく物作りが派手さ…や、スキャンダル性…がもてはやされるような現代において、『ユンヒへ』の一貫した静かな物語の運び方は、際立っていました。

例えば、カンヌ映画祭はじめ、いろいろな賞を取っている、「ドライブ・マイ・カー」。

私は、あの作品の、最後の最後…が、まったく興醒めする部分であり、それゆえになんとも微妙な気分で劇場を後にしました。

そう。
最後の最後で、心の奥底の気持ち…思い封じていたこと、を、あんなに饒舌にすべて言葉で語ってしまう見せ方って…
(観た人は分かると思うのですけど、終盤、二人が北海道の架空の村、上十二滝村に着いてからのクダリです。)

そこの部分だけで引っ掛かってしまうのは、かなり偏った捉え方しかできていないのかもしれないし、そもそもあの作品が、劇中劇のような形でも表している通り、「言葉」で伝えるということが意味すること… を観てる側に問いかけているところも一つのテーマだとも思うので、ゆえにあの終盤のシーンにしたのだろうとも理解はできます。
俳優陣が良かったと思う、… だからこそまた物語の最後の落とし所が気になってしまうのです。

かたや、「ユンヒへ」は、冒頭に読み進められる、手紙によってのみ、しばらくの間この二人がどういう過去を持ち、どういう痛みを経験して、今を生きているのかを読みとくしかなく、逆にその余白によって、観ている側は徐々に分かっていく二人の関係性に、自然と深く思いを馳せていくのでしょう。
後半、
20年もの間、会っていなかった二人が再会するシーンでは、ユンヒが一粒、落涙し、やっとお互いが発する言葉は、
「久しぶりね」「そうね」
ただその二言。
ただその言葉だけ、だからこそ、20年もの間、二人それぞれに雪のように降り積もった想いに、観ているこちらは心を震わされるのではないでしょうか。

なぜ、この二つの作品を比べてしまったかというと、奇しくも共通している点があり、それはどちらも都会ではない地方の風景の中で物語が静かに描かれつつ、そのテーマも「過去の傷、その後ずっと抱えてきた苦痛の時間を、どう救済するのか/されるのか」ということがあるから。

人の心に深く響かせるためには、
そこに、もちろん闇雲ではなく精緻に吟味され配置された、「空白」「余白」があること。

この、「ユンヒへ」の劇場用パンフレットの中の児玉美月さんという方のコラムが、まさに的確だと思いました。

『 映画はときに、途方もない「重さ」と向き合い、表象不可能性について自問し、そうしてなにを映像としてスペクタル化すべきでないかを入念に判断しなければいけない。 』

それからもう一つ。
「ユンヒへ」を監督したイム・デヒョンは1986年生まれ。
そんな、若いアジアの監督がこういう深淵なLGBTQ 作品を作り上げたことに、深くリスペクトしたいのです。
まだまだ日本でも、韓国でも、残念ながらこういった形でクィア作品制作に挑んでいくのは、リスキーな部分もあると思うのです。
イム・デヒョン監督は、折に触れ「これはクィア映画だ。」(同性愛やどれにも当てはまらない性的アウトサイダーについての映画全般を指す。)とおっしゃっていて、それはかなり意識的にそういう作品作りに挑んだということの現れだと思うのです。

また自分にとって特別な物語を見つけられて、幸せなのでした。
寝木裕和

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