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大丈夫であるように ─Cocco 終らない旅─の海のレビュー・感想・評価

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わたしがCoccoの曲をはじめて聴いたのは14歳の夏休みだった。当時、仲良かった友だちと、その子の家で聴いた。その子はパソコンの前に座ってて、わたしはソファにもたれて座ってた。彼女は聴き終えて、わたしの顔を見ようともせずに、こう言った。「これあたしすごいわかるんだ」そんなの、言われなくてもわかった。Coccoのつくる歌から、滲み出すやさしい部分よりも、怖いと感じるほど暗く追い詰められた部分に、わたしは誰よりもその子を感じた。ほんとは、何言ってんのとひっぱたいて、外に連れて行きたかった。だけどそれが正しいのかわからなくて、どうして、とだけ言って、恍惚として宙を見ながらその子が語る言葉を、わたしはぼんやり聞いてた。15歳、その子のために歌をつくった。ミルクというタイトルの歌で、わたしが毎日通学の電車で聴いてたcharaのミルクと、わたしとその子の名前を由来にしてつけたタイトルだった。地元から何駅か先のライブハウスに行った帰り、わたしたちだけしかいない静まりかえった電車の中で、いつか聴かせてねと言ってその子は笑った。結局一度も聴かせてはあげられなかった。あの歌を一度でも聴かせてあげられてたら、何か変わってたのかなと今もときどきおもう。その日、駅までの道を歩きながら、あのバンドやっぱよかったねとか、いつかもっと有名になって遠くにいくんかなぁとか話した。歩きつかれたね。わたし夜ってすき。このままずっと歩けそう。そいえば学校であたし聖書読まされるんだけどさ。神さまって一週間で世界つくったらしいよ。だから世界ってこんななんじゃん。あたしが神さまだったらもっと時間かけて誰も傷つかないような世界つくる。電車に乗って、がたんごとん揺られて、まだ帰りたくないねと言ったら、わたしを家まで送ってくれた。帰るときだけあっさりしてて、じゃあねと言って歩き出したら絶対に一回も振り向かないような子だった。わたしとの会話を絶って、わたしに背を向けて、視界からわたしを外せば、もうその子の世界に、わたしっていう存在は居なくなるんだ、と思った。ライブの日記をタイムラインにあげると、その子も数時間後にあげた。わたしの文章をそのままコピペしてるところがやっぱりあって、でもそんなことで文句言って喧嘩したくないって思うくらい、その子に夢中だった。好きとか、友情とか、そういうのよりも、ただ助けてあげたいという気持ちだった。その子がみている、わたしの知らない怖い世界とか、さみしさとか、孤独とか暗やみを、わたしが消してあげたい、なかったことにしてあげたいと思っていた。いま、Coccoの歌とか、想いや声を聴いて、その子に似てると思わなかったことが不思議だった。その子にはCoccoのようなつよさも、やさしさも、ほんとうの暗さも、ほんとうの明るさだって、無かったんだと今はおもう。でもあの頃、彼女はわたしにとって、つよく、やさしく、暗く明るいひとだった。彼女はほんとうは、すばらしくなんてなくても、どんなに落ちこぼれていても、いつだってわたしこそが一番に手を差し出したいと思うほどに、ずるくてかわいい友だちだったのは、確かだった。それは彼女の孤独が、わたしの孤独と正反対で、ぴったりと重なりあえていたからなのかもしれない。潮のながれを切りさいて泳ぐちからのようにしたたかで、けれど息つぎをする瞬間のようにあやうげで、誰かの不幸のために、いくらでも泣けるひとだとすぐわかるほどにやさしく、まっすぐで、それゆえに傷つきやすい心をCoccoのすがたに感じる。Coccoさんは、ふたりの人間からできているようなひとだ、とおもうし、それゆえに、ひとりのひとなんだとおもう。
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