シゲーニョ

ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONEのシゲーニョのレビュー・感想・評価

3.5
本作「ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE (23年)」の劇中、20分過ぎあたりだったと思う。

凡そ30年近く、このシリーズを見続けてきて、喉の奥にずっと詰まっていた、妙にイライラするものがやっと取れたような、スッキリした気分になることがあった。

国家情報長官のデンリンガー(ケイリー・エルウィス)が、CIAや軍関係者、アナリストの部下たちに向かって、「IMF?どういう意味だ?何の略?」と質問する場面だ。

そこで部下の一人が真顔で、こう答える。

「International Monetary Fund
 (国際通貨基金)ではありません。
 Impossible Mission Force
 (不可能作戦実行部隊)です…」

もしかしたら自分だけかもしれないが、この「IMF=普通だったら国際通貨基金と思うだろ!」案件は、第1作目の「ミッション:インポッシブル(96年)」の時から、観ていて、劇中で誰かツッコミを入れないか、ずぅーと思っていたことで、3作目の「M:I:Ⅲ(06年)」の終盤にして、嫁のジュリア(ミシェル・モナハン)が、イーサン(トム・クルーズ)に「IMFってどういう意味?」という待ち望んだシーンが、ついに到来(!!)

「ヨシ!やっと来たか!」とスクリーンに向かって前のめりになってみたものの、「インポッシブル・ミッション・フォースの略だよ」とイーサンが隠し立てなく即答すると、ジュリアは「へぇー」と一言だけリアクションを返し、あとはスルー…。
「もっとツッコミ入れるところ、あるだろう!?」と、終幕となり劇場に明かりがついた時でさえも、独り、まだイラついていた…。


さて、本作「デッドレコニング PART ONE」は、世界の勢力図を覆す力を持ちながら暴走してしまったAI=“Entity”を破壊するため、イーサンは仲間と共に、そのAIに繋がる「鍵」を入手するミッションに挑むというストーリー。

鑑賞中、実に上手いアイデアだなと感心したのは、本作の(たぶん)ラスボスである“Entity“は人を騙かすAIなのだが、それに対抗するのが変装の名人イーサンという点だ。

これまでIMFのメンバーたちは、悪者たちを変装などでダマくらかして、世界の危機を救ってきた。
そのチームに最後の敵として立ちはだかるのが、同等かそれ以上の「真実を見誤らせる存在」というのは、非常に理にかなっていると思う。

ただし、字幕界の女帝が訳した字幕「それ」はちょっと頂けない。
「実体、存在」とか色々訳せるはずだし、IT用語でも「何らかの識別名」という意味で、“Entity“という言葉はそれなりに認知されているらしいので、そのままカタカナ表記「エンティティー」にすればよかったのに…。

劇中で、敵の実体やストーリーを掴みづらくしているのは、そのAIのシモベというか、実行部隊のガブリエル(イーサイ・モラレス)の正体がイマイチよく分からんということも当然あるが、間違いなく、ナッチの意訳「それ」が加担していると思う…(汗)

また、タイトルの「デッドレコニング」も最初、耳にした時、「ゴースト・プロトコル(11年)」のように「また長ったらしい、よく意味が分からない題名にしたな…」と若干辟易したし、ハンフリー・ボガード主演のノワールもの「大いなる別れ(47年/原題:Dead Reckoning)」の影響下にある作品なのかと勘繰ってみたものの、いざフタを開けてみれば、全く関連性がなさそうで、ただ題名が同じだったという肩透かしを喰らってしまった。

ネットの情報や雑誌の記事によると、船舶の用語で、過去及び現在のデータから推定して、航路や到達地までの距離を決定する航法の呼び名らしく、すなわち、目標に到達する確率の高いものを予測・優先・選択することなのだろう。

しかし、「ミッション:インポッシブル」シリーズの主人公イーサンは、その映画のタイトル通り、常に誰もが「それ、絶対無理!」という、成功する確率が一番低い(つまり相手の裏をかく)作戦に挑み、実行した結果、ミッションを尽く完遂してきた。

まぁ、イーサン本人は自覚が無いのか、「ゴースト・プロトコル」では、敵の隙を突くアイデアが浮かぶ理由を尋ねられた時、「I Played a Hunch(思いつきの行動さ!)」と答えていたし、「ローグ・ネイション(15年)」では、ワシントンのお偉いさんから「イーサンのやり方は荒っぽ過ぎる。いつも運任せで、偶然、成果が出たように思える」と嘲弄されていたが…。

つまり、イーサンは「デッドレコニング」と一番距離を置く対極の存在、相反する存在であり、そういった判断の根拠(=イーサンのアイデンティティーを過去に遡って探る)を本作のテーマにしたことを鑑みれば、まさにピッタリのタイトルに思えてくる。

また、本作では劇中、イーサンの「ボクは友人の命が何よりも大切だ」という意味合いの台詞が、二度ほど繰り返される。

劇場鑑賞から1カ月以上経ち、記憶が薄れてしまったので、順番が逆かも知れないが…(汗)
先ず、相棒のルーサー(ヴィング・レイムス)に「ミッションに比べりゃ、オレの命は二の次だろう?」と言われたイーサンは、「いや、それを受け入れることは出来ない…」と答える。

これは前作「フォールアウト(18年)」で、プルトニウムに気を取られ過ぎたことで、ルーサーの命を危険に晒してしまったことに対する後悔と、自分に対する戒めを含んだ言葉なのだろう。

次に、ミステリアスな美女でスリが特技のグレース(ヘイリー・アトウェル)を「鍵」強奪作戦の仲間に引き入れるようと説得する時、イーサンは先ず、こう話し始める。
「僕たちのチームに入らないと、キミの命は1日も持たない。わずか数時間だ…。キミの安全を守ることを約束する。でも保証はできない…」

これはかつて、「M:I-2(00年)」で、グレースと同じような女泥棒ナイア(タンディ・ニュートン)を言葉巧みにミッションに引き入れた結果、生命の危機に立たせてしまったこと。そして「M:I:Ⅲ」「フォールアウト」と二度までも最愛の人ジュリアを巻き込み、窮地に追い込んでしまった過去の自分の力の至らなさを、包み隠さず、吐露しているように思えてしまう。

そしてイーサンはグレースに向かって、こう決意を述べるのだ。

「でも、これだけは信じてほしい。
 キミの命が自分の命より大切だと
 いう事をボクは誓う」

本作「デッドレコニング PART ONE」では、若きイーサンがIMFに加入するきっかけとなったとされるある事件が、回想シーンによって悪夢のように度々フラッシュバックする。

地下坑道のような、陽の光が差し込まない暗闇の中、死体のように横たわるマリーという名の女性。

犯人はガブリエルなのか、それとも…。

「デッドレコニング」二部作のテーマが、イーサンの“贖罪”になるのかどうか分からない。

しかし、過去に大切な人を守れなかった体験、あるいは他人の行動を読み過ぎたことで招いた失敗、そんな自責の念が、自分の命を投げ出してまで“不可能を可能にする”イーサンのモチベーション、その原点だということを解き明かす二部作になるのではと、あくまでも勝手な推察だが思えてならない。

そして「ゴースト・プロトコル」のクライマックス。
イーサンが、ついつい先走り過ぎて、口から出てしまったあの言葉。
ルーサーにそのことを正直に言ったら、小バカにされたあの言葉。

「Mission Accomplished!(ミッション完了!)」

次作「デッドレコニングPART TWO」で、この言葉がドンピシャのタイミングでイーサンの口から聞けることを、公開時期が未だ決まらない今から、もう、自分は願っている…。


さて、本作の公開前、米国の長寿TV番組「Today」に出演した際、トム・クルーズはこの「デッドレコニング」二部作がイーサン・ハントを自分が演じる最後の作品と語っていたが、改めて振り返ると、第1作目「ミッション:インポッシブル」以降、アクション映画に出演するトム・クルーズのイメージ、その大部分は、全て自分でスタントするという“事実”、その強調のように思えてくる。

それは、スクリーンに映し出されるのは決して“幻影”ではなく、常に“オーセンティック”な被写体であることを観客にギャランティしているようにも感じるし、ちょっと穿った見方をすれば、「マトリックス(99年〜)」シリーズや昨今のコミックヒーローもののような、グリーンバックでの撮影やCGIを使った“地球の重力や人間の身体能力の限界”を無視したアクションに対するアンチテーゼにも思える。

昨年公開された「トップガン マーヴェリック(22年)」然り、「それ、普通だったら絶対に死ぬだろう!?」描写、その演技を延々とやり続けるトム・クルーズを観るにつけ、「自分の演じるヒーロー像を観客に一瞬たりとも疑問を抱かせてはいけない!」「オレは完全無欠のスーパースターなんだ!」という彼の信念、その煌く自信のオーラをスクリーン上から感じずにはいられなかった…。

トム・クルーズ以外にも、普通だったら死ぬようなことをして、スターダムにのし上がった俳優にジャッキー・チェンがいる。
(そう云えば、「M:I:Ⅲ」の頃だった思うが、大スターで、脚本からキャスティング・撮影・編集と何から何まで仕切りたがるプロデュースぶり、そして劇中及び私服まで黒ティーばかり着ているところも含めて、トムとジャッキーがなんか似てるな〜と感じたことが度々あった…笑)

しかし、「ミッション:インポッシブル」シリーズの“無茶さ加減”は、ジャッキー映画と異なったものと云えよう。
やっていること自体、高いところに登ったり落ちたりして変わらないのだが、このシリーズはスタント重視というよりも、“シチュエーション”に重きを置いているように感じられる。

トム・クルーズもジャッキー・チェンも、古典的アクション映画をホントによく知っていて、手本とすることが結構あるのだが、例えば、サイレント時代の大スター、ハロルド・ロイドの「ロイドの要心無用(23年)」。

ジャッキーが「プロジェクトA(82年)」で、ロイドが時計の針に宙吊りになるシーンを時計台からの落下スタントとしてオマージュを捧げたのに対し、トム・クルーズは本作「デッドレコニング PART ONE」で、同じ題材をイーサンとグレースが、崖にぶら下がる列車を懸命によじ登り、あるモノが落下してくるギリギリのところで窮地を脱するシチュエーションへと昇華させている。

まぁ、本シリーズのファンからしてみれば、前作「フォールアウト」のクライマックス、ヘリコプターからの宙吊りのリフレインのように思えるだろうし、大抵の映画マニアなら、スピルバーグ監督作「ジェラシック・パーク(90年)」でのツアー車両がサム・ニールたちのしがみ付く木の枝へと落ちそうになるシーンや、その続編「ロストワールド(97年)」のトレーラー内でのジュリアン・ムーアたちが宙吊りになるシーンのアップグレード版と感じてしまうかもしれないが…。

ここからは勝手な推察だが、この凄まじいシチュエーションに於いて、スタントマンに頼らず、自分で演ったからこその迫力やスリルを映像に焼き付ける“他のスターには絶対にマネできない”チャレンジが、観る者に感動を与え、称賛されたとトム・クルーズ本人が実感したのは、やはり一発目の「ミッション:インポッシブル」の時からだろう。

終盤の列車アクション。トンネルに突入したヘリコプターが大爆発を起こし、トム・クルーズは爆風で吹っ飛ばされる。この時点で「こいつ、絶対に死んでるだろう」と普通だったら思うのだが、さらにヘリの羽根が顔面めざして飛んでくる。
但しこのシーンの撮影が主にグリーンバックだったことに反省したのか、3作目以降から「ちょっとあり得ないシチュエーションをギリギリでかわす描写」を、よりリアルに、よりリスキーなものへと本格化させていく。

「M:I:Ⅲ」ではドローンのロケット攻撃に巻き込まれ、吹っ飛ばされ、止めてある車にガツンと背骨が折れるくらいブチ当たったのに、それでも走って逃げ遂せるし、続く「ゴースト・プロトコル」では世界一高いブルジュ・ハリファで地上518mの外壁にぶら下がり、「ローグ・ネイション」では離陸するエアバスA400に突風の中、必死の形相でしがみつき、前作「フォールアウト」では、飛行中のボーイングから跳び降りて地上609mでパラシュートを開き、史上初めて映画撮影でHALOジャンプを行ったスター俳優になるなど、「命知らずにも程がある!」と注意したいくらい、超危険なスタントを繰り返してきた。

(通常、ハリウッド映画の場合、普通の俳優が危険を伴うアクションをスタントマン無しで演じようとすると、撮影中にケガをされたら補償しなきゃならないという理由で、保険会社がストップをかけることがほとんどなのだが、プロデューサーも兼務するトム・クルーズの場合、たぶん強権発動で誰からも「No!」と口を出せないようにしているのだろう…笑)

しかし…しかしである。
たしかにトム・クルーズの頑張りがあって、この「ミッション:インポッシブル」シリーズは、“アクション映画の限界に挑む代名詞”と謳われるほどのヒットシリーズになった。

だが、元々TVドラマ「スパイ大作戦」のリメイクから始まっただけに、アクションと同じ比重でファンが求めるのは、サスペンスフルな人間ドラマ=スパイ・スリラー劇のはずなのに、シリーズの回を重ねていくうちに、いつからか作り手たちの発想の序列が、アクション前提の映画作りになってしまっているように感じられる。

トム・クルーズも本作「デッドレコニング PART ONE」公開前のインタビューで、「このシリーズを作るプロセスの中で、最も重要なのがスタント・アクションだ。ただアイデアを出して想像するだけでなく、どうしたら撮影出来るかがポイントなんだ」と答えているし、監督のクリストファー・マッカリーも「アクションのスケールは本数を重ねるごとに大きくなっている。でも前作を超えるスタントをクリエイト出来るか否かが成功の鍵なんだ」と言及しているように、ストーリーテリングやキャラ造形は二の次三の次で、先ず、如何にインパクトのあるアクション・シーケンスを作るかに重きを置きすぎている傾向が見られるのだ。

もしかしたら、シリーズ初期の頃からアクションをメインにしたプロセスで作られていたのかもしれないが、ブライアン・デ・パルマやジョン・ウーは持ち前の強い作家性で上手く“作品”としてまとめ上げていたし、当時新鋭監督だったJ.J.エイブラハムスやブラッド・バードも、それぞれTVドラマやアニメ製作という下地で培った経験やアイデアを活かし、シリーズを逸脱しない、堂々とした快作に仕上げたと個人的には思っている。

しかし、クリストファー・マッカリーが連続してメガホンをとった3作を俯瞰で見ると、最初の「ローグ・ネイション」にはシリーズ本来の肝となる“イーサンが仲間を引き連れて作戦を展開する流れ”が辛うじて残っていたが、「フォールアウト」、そして本作「デッドレコニング PART ONE」に於いては、イーサン独りが敵の策略に陥って右往左往し、ルーサーやベンジー(サイモン・ペッグ)といったIMFチームお馴染みメンバーは体力&気力の限界、装備の不備など色々な事情もあってか、只々傍観者になるだけの流れが繰り返され、結果イーサンの「死ぬだろアクション」の連打によって、事件が無事解決するというオチばかり…。

まぁ、冷静になって考えれば、1作目からして内ゲバに巻き込まれたイーサンが容疑をかけられ、孤軍奮闘する物語だったワケだが、クリストファー・マッカリーが連投した3作は、いずれも自分のチョンボが原因だったり、優先すべきものを間違えた結果、IMFを解体させられたり、国際指名手配を受けたり、果ては敵の黒幕と疑われるなど、イーサンが四面楚歌になるハナシばかりだ。

さらに本作「デッドレコニング PART ONE」はセルフ・オマージュとか、古典的名作のパッチワークのようなビジュアル、キャラ設定、聞いたことがある台詞などデジャブー感漂う描写が多い。

長い長いアバンタイトルシーケンスの終盤、ようやくスクリーンに姿を現すイーサンの場面は、間違いなく、キャロル・リード監督作「第三の男(49年)」からの引用だろう。

暗闇から声を発し、そこに光が差し、旧友の前に顔を晒したオーソン・ウェルズの、なんともいえない笑みを浮かべた表情と、一輪の光で浮かび上がるイーサンの顔、その動き方がソックリなのだ。

そして特筆すべきが、その後すぐにイーサンの口から発せられる言葉「ブラボー・エコー・ワン・ワン」。

これは1作目の劇中内、プラハの作戦でチームが全滅し、本部に電話で救援を求めた際に告げたイーサンのコードナンバー。
緊急時でしか使用しないものらしく、シリーズを通しても、他には「ローグ・ネイション」で、囚われの身から脱出したイーサンが、ロンドンからCIA本部のブラント(ジェレミー・レナー)に一般回線で電話報告した時の一度きりだ。

なので、敢えて製作サイドが、約30年前に公開された第1作のパスティーシュを積極的に行った印象を、自分だけかもしれないが強く感じてしまう。
まぁ、本作が主人公イーサン・ハントの有終の美を飾る、シリーズの集大成的立ち位置の作品であること、また、そのメインプロットが「イーサンの隠された過去」なので、「原点回帰」風味の構成になったのは、仕方が無いのかもしれないが…。

1作目でイーサンを裏切り者だと誤解して告発したキトリッジ(ヘンリー・ツェニー)の再登場など、まさにその象徴と言えるだろう。

序盤、CIAの会議室でイーサンと交わした会話「I Understand You’re Upset(キミが動揺するのは理解できるよ)」は、1作目の(水槽が爆発し水浸しになる)レストランでの台詞と全く同じ。

また、終盤、オリエント急行に乗り込み、ホワイト・ウィドウ(ヴァネッサ・カービー)と取引するのも、1作目での特急列車TGV内で、ホワイト・ウィドウの母、武器商人のマックス(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)と出会すシーンを彷彿させる。

他にも1作目を思い起こさせるシーンは、まだある…。

イーサンが空港でグレースに見せる鍵を使っての手品は、1作目でNOCリストの入ったディスクをクルーガー(ジャン・レノ)から取り戻す時に使ったのと酷似しているし、先述したイーサンを時折苛ませるマリーの遺体が映し出される回想シーンも、プラハの薄暗い川辺で、何者かにナイフで刺し殺されたイーサンの同僚サラ(クリスティーン・スコットトーマス)を思い出さずにはいられない。

[注:トム・クルーズは余程このシーンに思い入れが強いのか、前作「フォールアウト」でも、隠れ家の地下水道で、ハンリー長官(アレックス・ボールドウィン)が、金網越しにナイフで刺されるシーンでリフレインしている]

そして、敵ヴィランの名前がガブリエルであること。

ガブリエルは聖書において「神のことばを伝える天使」という存在。そういった意味では、“Entity“のシモベであり、その意思を伝える役柄に、とてもマッチしたネーミングだと思えるが、自分としてはやはり1作目の敵、裏切り者のヨブを連想してしまう。
ヨブも旧約聖書の中に登場し、なぜ神がこの世に悪と苦難を存在させたのか、その理由を探求したことで知られた人物で、正義を司る諜報員は悪がいてこそ存在できるという、第1作の敵の歪んだ理念に相通じるようにも思えた。

次に、気になった古典的名作のパッチワークのようなビジュアルについてだが、先にも述べた「ロイドの要心無用」や「第三の男」以外にも、特に「007」シリーズを意識せざるを得ないシーンが多々見られた。

オリエント急行の列車上のアクションは、本シリーズ第1作目にもあった伝統芸なのだが、当然「007/オクトパシー(83年)」や「007/スカイフォール(12年)」がダブって見えてきてしまうし、敵の×××××が脱出用にトラックを用意していたところなんて、「007/ロシアより愛をこめて(63年)」での、スペクターの刺客グラントが企てた作戦と瓜二つ。

また、イーサンとグレースが“黄色い”フィアット500に乗って、ローマの市街地を疾走するシーンは、「007/ユア・アイズ・オンリー(81年)」でボンドが両親を殺された復讐に燃える女メリナを乗せて運転する“黄色い”シトロエン2CVがマドリードを駆け巡るシーンの応用だろう。

両作ともに、ちっちゃな黄色い車が出力のデカい車に追われ、途中で横転する展開だ。

イーサンとグレースが手錠で繋がれた状態で車を運転するのも、「007/トゥモロー・ネバー・ダイ(97年)」で、車ではなくバイク(BMW R1200C)であるものの、既にボンドは経験済み。

[注:但し、ボンドもイーサンも本を正せば、先述した列車上でのアクションは「キートンの大列車追跡(26年)」、手錠で繋がれるくだりはヒッチコックの「三十九夜(35年)」から、モチーフを借りたことになるのだろうが…汗]

だが、しかし、さすがトム・クルーズ!! そこにオリジナルのアイデアをぶっ込んでくる。
車が坂を転がる間に、運転席の人間と助手席の人間が入れ替わる、ちょっと昭和の香りがするギャグを見せるのだ(!!)

(蛇足ながら、海外でも、この黄色いフィアットのカーチェイスが、「『ルパン三世/カリオストロの城(79年)』の影響下にあるのでは?」とネットで騒がれていたが、クリストファー・マッカリーはSNS上で「ルパン三世のことは殆ど知らないんだ。単なる偶然だと思うよ…」と、やんわり否定をしている。
真実はどうあれ、「ルパン三世」自体、TVアニメ第2シリーズの82話「とっつあん人質救出作戦」と97話「ルパン一世の秘宝を探せ」で、ラロ・シフリン作曲のあの有名なテーマ曲を勝手に使用しているので、お互い様だと思うのだが…笑)

そして、トレーラーやCMスポットで繰り返し再生されたことで、劇場で観る前から既にお腹いっぱいだった「バイクに跨って岸壁からの危険なジャンプ!」のスタントは、ピアース・ブロスナンのボンド襲名第1作「007/ゴールデンアイ(95年)」のアバンタイトルそのまんまながら、その後、イーサンが○○○○○○を使って列車に乗り込むのは、見ようによっては「キートンの酋長(22年)」での、崖の上から数十メートル下に投げ落とされたキートンが、大きな布を使って無傷で着地するギャグのパスティーシュにも思えてしまう…。

まぁ、トム・クルーズに「007シリーズ愛」みたいなものを感じるのは、そもそも本シリーズの企画が、本家「007」の製作プロダクションが版権問題で法的な争いに突入し、「007」の新作が作られない長い空白期間に、「ボクなら今の時代が求めるジェームズ・ボンドが出来る!」と、「スパイ大作戦」の名を借りて「007」ごっこをやりたいトムの願望みたいなものからスタートしたものだし、古典的アクション・スリラーの断片がそこかしこに見え隠れするのも、本作から始まったことではない。

1作目のCIA本部に侵入したイーサンが、天井のダクトからワイヤーを使って降下し、床面ギリギリのところでストップするシーンは、女泥棒とその一味が活躍するサスペンス・コメディ「トプカピ(64年)」が元ネタで、厳重な警戒を張り巡らせたイスタンブールの宮殿の中、天井からロープを使ってお宝(短剣)を盗もうとする場面を応用したものだし、「M:I-2」でのナイアが囮になって、元恋人の悪の親玉のアジトに潜入するところなんて、ヒッチコックの「汚名(46年)」での恋人の諜報部員のために、ズブの素人女が敵ボスにハニートラップを仕掛け、情報を引き出す展開の焼き直し。

そして「ローグ・ネイション」序盤のクライマックス、イルサ(レベッカ・ファーガソン)がウィーンのオペラハウスで狙撃するシーンは、やはりヒッチコックの「知りすぎていた男(56年)」へのオマージュだ。
「知りすぎていた男」ではシンバルの鳴らされる瞬間が狙撃のタイミングだったが、「ローグ・ネイション」では譜面に「ア・テンポ」と記された箇所で、オーストリアの首相が狙われる。


さて、ここまで長文・乱文で、多少の苦言含め、いろいろと書いてきたが、もちろん自分は、映画・音楽・小説・絵画といった現在の創作物に“真のオリジナル”など、なかなか存在しないことは理解しているつもりだ。

作り手や書き手たちが、これまでの人生の中で見聞きしたもの、感銘や刺激・影響を受けたものが、カタチを変え、アレンジされたり、更にクリエイターのアイデアが加味されたものが、今現在、我々が目にする創作物・知的成果物なんだと思う。

ただし、「ミッション:インポッシブル」のような長寿シリーズには、製作され続けてきた長期間に培ってきた“オリジナル性”が間違いなくあるはずだ。
それをセルフ・オマージュや過去作のサンプリングで、希薄にしてしまうのは本末転倒だと思う。

例えば、本作でも相変わらず、イーサンは走る!走る!
「M:I:Ⅲ」の上海郊外の町中、「ゴースト・プロトコル」のドバイでの砂嵐、そして「フォールアウト」ではロンドンの建物の屋根の上で見せた、背筋をピン!と伸ばして両手を規則正しく前後に振る、あのお馴染みのフォームで走りまくる。

しかも今回は、敵がデジタル・テクノロジーを無用にするAIのため、これまでのようにGPSやベンジーの無線からのナビゲートを当てにすることが出来ないという、ちょっとした仕掛けを加えているのだが、個人的にはこういう場面だからこそ、イーサン一人に頼らず、オリジナルの「スパイ大作戦」から綿々と描かれてきたシリーズの売り“一糸乱れぬチームワーク”、AIの裏をかく見事なチームプレーで乗り切る展開を期待してしまうのだ…。

もちろん、このシリーズの持つ“オリジナル性”の代表と云えるのが、他の追随を許さないスタント・アクションだということは納得している。
だが本作「デッドレコニング PART ONE」のように、イーサン単独のスタントアクションが質・量ともに突出し過ぎて、本来ならば観客を引き込むはずのストーリーテリングが、逆に疎かになってしまうのは、次作に向けてやはり改悛すべきポイントだと感じざるを得ない…。


本作の劇場鑑賞からしばらく経って、「ローグ・ネイション」と「フォールアウト」を改めて見返してみたのだが、トム・クルーズと監督クリストファー・マッカリーのアクション映画の嗜好性がとても似ているように思えた。

特に映画の黎明期から1980年代くらいまでのアナクロな映画作りに対する思い入れ、リスペクト、知識みたいなものが二人はめちゃくちゃ一致していると思う。

アクション映画史を、このシリーズで「毎回塗り替える!更新していく!」というチャレンジ精神というか、野望みたいなものが、きっと二人は共通して持ち合わせているのだろう。

そして、演じるトム・クルーズ自身が、年齢的、現実的な限界を、いよいよ見据えてきたからこそ、本作のスタント・アクションがよりエスカレートしたんだと、なんとなくだが思えてしまったのだ…。



最後に…

これから記すことはネタバレ覚悟となることを予めご了承頂きたいのだが…

本作「デッドレコニング PART ONE」は企画当初から、前後篇の二部作となることを想定して作られたものだ。

過去にも「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART 2(89年)」と「PART 3(90年)」とか、「マトリックス リローデッド(03年)」と「レボリューションズ(03年)」とか、「キル・ビル Vol.1(03年)と「Vol.2(04年)」とか前例がないワケじゃない。

そして上記の作品いずれも、前篇では次作(=完結作)への期待感を募らせるラストが用意されていた。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」なら落雷の影響で過去にドクが飛ばされ、パニックになったマーティに謎の電報が届くし、「マトリックス」ならエージェント・スミスが現実世界に現れ、今後の更なるピンチを予感させたし、「キル・ビル」ではブライドが死んだと思った娘が実は生きている衝撃の事実を知ってジ・エンド。

しかし本作のラストは、次作への期待を煽るような“謎かけ”みたいなものが全く用意されていない。

スクリーンに映し出されるのは、北極の氷冠の下に沈むロシアの潜水艦「セヴァストーポリ」の残骸…そして次の現場に向かうらしきイーサンの姿。

たしかに、劇中のイーサンたちは、あの鍵にいったいどんな意味があるのか、何に使わられるものなのか、寝返ったパリス(ポム・クレメンティエフ)のちょっとした情報だけで、ハッキリと分かってはいない。
だが、劇場にいるコッチ側からしてみれば、冒頭のアバンタイトル内で、暴走した“Entity“によって沈没する潜水艦の顛末を延々と見せられ続けてきたワケで、こんなラストカットでは何の驚きにもならないし、次作をワクワクさせるような要素などに無論なるはずがない。

[注:見方によっては、イーサンのラストカットは、「ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔(01年)」での、滅びの山に向かうフロドを思い出させる。
壁や天井に映し出された“Entity”の姿も、冥王サウロンの目っぽいし。但し、声は「プレデター(87年)」の透明時の唸り声にソックリだが…笑]



鑑賞中、自分が勝手に妄想したラストシーンなのだが…

満身創痍のイーサンの携帯が突然鳴り始め、出てみると相手はガブリエル。
するとガブリエルは、こうイーサンに囁く。

「イーサン、
 任務優先のためにマリーを殺したお前を
 オレは絶対許さない…」