テテレスタイ

コリーニ事件のテテレスタイのネタバレレビュー・内容・結末

コリーニ事件(2019年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

いわゆるドレーアー法と呼ばれる悪法を糾弾する裁判映画。

映画の冒頭で経験不足な新米弁護士が出てきたので、あ、これは成長してベテランどもを打ち負かす痛快な法廷ものかと思ったけど、ナチスの話だと分かってからどんどん重厚なストーリーに様変わりして、主人公が活躍しだして情報が集まってきてからはどんどん映画の中に引きこまれていって、でも虐殺の場面では目を覆いたくなって、そして裁判のクライマックスシーンで、検察側弁護士のマッティンガー教授からあれは悪法だったという趣旨の証言が得られたことでようやく正義を取り戻せたと安堵した。

教授がその返答をするとき、事前に周りに目配せをした。そのとき、それまで味方だったはずの判事や検事は教授を蔑むように睨んでいた。

だから、教授は自分にもう味方がいないことを悟ったはずだ。教授はそれを確認した後、これが法治国家かという主人公の問いに、違うと答えた。僕には教授が長年培ってきた法の知識に基づいて法律の専門家として返答したのではなく、周りを見て味方がいないことが分かったから日和見的に違うと答えたように感じた。

この教授の日和見こそがこの映画が一番見せたかったものだと僕は思う。民主主義では信念がないならば多数派になった方が楽だ。その方が一番恩恵を受けられる制度だからだ。長い物には巻かれた方が賢い。

でも、いつかはそのツケを払わなければいけない時が必ず来る。ツケが来ることが分かっていながら周りに流されてしまうのは怖いからだ。逆らえば次は自分の番になることが分かっているからだ。

教授は主人公側に屈服した後、主人公の依頼人であるコリーニ氏を見た。その目は、どうか孤立した私を仲間に入れてくださいという目をしていた。教授の表情には明らかに不安の感情が宿っていた。安心したいのだ。

ある意味、教授はとても民主的な人物だといえる。多数決の原理で動いているからだ。だから僕は教授に屈辱的な親近感を覚えたし、もしも僕が権力を持っていたら教授と同じことをしたかもしれないという不安に襲われた。



裁判は主人公側に有利に進んだ。しかし、コリーニ氏は判決を待たずに自殺してしまった。これは彼なりの公平さの意思表示だったと思う。彼の父親はマイヤーに虐殺されたからその復讐として彼はマイヤーを殺害した。公平性を保つならば、マイヤーの殺害に対しても報復がなされるべきだというのが彼の考えなのだろうと思う。

彼はようやく公平な裁判を受けた。だから、その恩返しとして公平な裁きを自分に下したのだ。マイヤーの家族から報復を受けるという選択肢もあるのかもしれないけれども彼はそれを拒否した。報復の連鎖を止めるために。

でも、マイヤーは多数の民間人を虐殺した。だから、コリーニ氏の父親だけで終わらせるのは間違っているような気がする。同じ苦しみを経験した同郷の人たちも同じように裁判をしたいはずだから、彼らの裁判を見届けても良かったように思う。しかしながら、マイヤーはもういない。だからマイヤーに対して裁判を行うことはできない。コリーニ氏は同郷の人たちから裁判を起こす権利を奪い取ってしまったのだ。彼の自殺にはその謝罪の意味もあったのかもしれない。



この映画は民主主義における権力と腐敗の構造について説いている。信念なき権力者は腐敗を成長させる餌になりえる。もちろん日和見が絶対に悪というわけではない。他人の意見を聞くことは良いことだ。しかし、どんな場所にも雑菌はいるように、どんな場所にも腐敗の芽は存在している。人間は腐った匂いに敏感だ。腐敗は匂いですぐ分かる。優生思想に陥るような潔癖症になってはいけないけれども、体を清潔に保つことを常に心掛けていたいものだ。