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キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱のchiakihayashiのレビュー・感想・評価

4.7
 イラン出身で自伝的グラフィック・ノベル『ペルセポリス』(’07年)をアニメ化もしているマルジャン・サトラピが、ロザムンド・パイクを主演に迎えてあのキュリー夫人の映画を撮ったことは知っていて観たい!と思ってたのだけれど、’19年のこの作品が日本でも遂に公開!
 といっても、首都圏では立川キノキネマ1館だけの上映。『グロリアス』『彼女たちの革命前夜』と、ここだけしか観られないフェミニスト映画をかけている映画館で、私はまたはるばると観に行ったのだった。で、その甲斐十二分! とーってもよかったです!(あんまり芳しくない映画評が多いみたいなんだけど、知るもンか!です!)

 昔々に伝記で読んだ〝キュリー夫人〟の実像はーーーといっても、フィクシャスに構築されたものだけれどーーー’18年のポーランド映画祭で観たマリー・ノエレ監督『マリア・スクウォドフスカ=キュリー』で感動とともに再発見した(このレビューも投稿しました)。今回の映画は女性の手になるグラフィック・ノベルが原作でより大胆な脚色になっている(「フランスではマリアじゃなくてマリーと呼ばれてしまうのよね」と故国ポーランドを懐かしむセリフがある。本作についてはマリーと表記する)。

 冒頭、マリーがソルボンヌ大学の教授会に怒鳴り込まんばかりのシーンから始まる(実際にマリーがアカデミックな世界で何度も煮湯を飲まされるような悔しい思いをしたことは『マリア・スクウォドフスカ=キュリー』でも繰り返し描かれていた)。

 今作ではマリーとピエール・キュリーの関係により焦点が当てられている。ふたりの出会いからして、マリーは独立不羈。普通なら女性がこんな態度を取れば、それは懸命に強がっているのであって、本当はとても可愛らしい性格なのだーーーというオチになりがちなのだけれど、このマリーは違う。どこまでも誇り高く頭を上げ、根っから芯が強いのだ。自転車で新婚旅行に行ったふたりが素っ裸で湖に飛び込むシーンだってある。

 とはいえ、母であり家事を束ねる役目はマリーに重くのしかかる。二人目の娘の産後の肥立ちが思わしくないことも相俟って、夫婦で受賞したノーベル物理学賞授与式には出席しなかったマリーだったが、帰国したピエールに「あなたは私の業績を盗んだのよ!」と食ってかかるエピソードは象徴的だ。「君のその傲慢さは問題だな」というピエールに、「私の問題は夫よ」と返すマリー。「もっと悪いのは、私がその夫を愛していることだわ」。

 ピエールが不幸な事故死を遂げた後、マリーは彼の弟子で長年、共に研究してきたポールに縋るように慰めを求める(またポールはピエールと面影が似ていた)。ポールは既婚者であり、その妻が強硬な態度をとって二人の関係は一大スキャンダルになり、マリーは「ポーランド女は国に帰れ!」と言われ、「ユダヤ女!」と事実に反した罵詈雑言を浴びせられもする(ポールについてはマリーが「彼は強い男じゃなかった」と姉に言うシーンがある)。

 なんといっても主演のロザムンド・パイクが素晴らしく魅力的。怒っていても小皺がいっぱいでも、これほど綺麗な彼女は見たことがない。

 この作品はマリーが第一次大戦中、ノーベル賞を2度受賞したという権威を盾に政治力を発揮し、戦線で負傷した兵士をレントゲン装置で正しく診断する活動に従事していたことも伝える。半ば強引にマリーにその活動を促したのは娘のイレーヌだった。

 キュリー夫妻はもともと子どもたちには言わばフリースクールのように独自の教育を施していたという。イレーヌはその甲斐あってか、後に夫と共にノーベル賞を受賞している(マリーはイレーヌの結婚に反対していたのだが、もちろん母の言いなりになるような娘ではなかった)。

 この作品のもうひとつの特色は、キュリー夫妻の放射能の発見が後に恩恵ばかりではなくいかなる悲惨を世界にもたらすことになったかという歴史に触れている点だ。ガンの放射線治療、そしてなんといっても核爆弾。ネバダ砂漠での核実験とヒロシマの原爆投下の朝の光景が描かれる。この挿入が突然で、映画的な構成を損なっているという批判があるのだが、マルジャン・サトラピ監督はトロント映画祭のプレミア上映でのトークで、観客にはそれだけの理解力があると自分は思っているというふうに語っていた−−−−その通り!!。

 ラストは、死を迎えて肉体から離れたマリーが、自らの科学的発見がどのような結末を招いたかを沈黙のうちに見つめる象徴的なシーンで終わる。マリーの科学者としての魂ならば、その残酷な真実に真向かう力があるはず、とこの映画は告げているかのよう(もちろん、たった一人で向き合う必要はないのだけれど)。
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