荊冠

ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき 空と木の実の9年間の荊冠のレビュー・感想・評価

3.0
学生時の自身とダブらせて見てしまい少し胸が痛む。
セクシャリティやジェンダーといった自認は永続的に固定的されたものではなく、実はその時の環境や身体状況に左右されやすい流動的なものだ。
そのために若くして性転換手術を受けた人間が、のちに性自認を変えたことで後悔に苛まれるケースがある。
より早い年齢から様々な施術が受けられる他国もある中で、日本で適合手術は18歳、戸籍の性別変更は20歳というボーダーが設けられているのは、(日本の性的マイノリティへの法制度が遅れているという事実でもある一方で)そうしたリスクを鑑みているという側面もある。
ある程度大人になり、自身のジェンダーを確信し(ジェンダーが流動的なものであるという時点で実は決定的な確信は不可能とも言えるのだが)、かつ施術によって負うリスクや責任を覚悟できる、その年齢として、18歳、20歳という線引きを日本では行っているのである。
もちろんその制限のせいで長く苦しまなければいけなくなるマイノリティの人が存在することは重く受け止めるべきで、そのあたりの柔軟性がこれからの時代より求められてくるのだが、あらゆるジェンダーが流動、変化する可能性、そしてそれが起こった場合(起こらない人もいる)、解消したはずの心理的葛藤が再び始まる可能性、そして手術などしてしまっていた場合、もはやもとには戻れないという後悔、そうしたものもより広く認知され審議されるべきだ。
このみさんの判断を非難する意図は一切なく、彼(彼女)は自身の信じる道を生きてゆけばいいと思うが、作品自体が、マイノリティの人間の葛藤やそれを解消するための手段を綺麗事に終始させてしまっているとは感じた。
これはこのみさんの人生を応援する作品であるが、マイノリティを応援する作品ではない。
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