荻昌弘の映画評論

情事の荻昌弘の映画評論のネタバレレビュー・内容・結末

情事(1960年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 傑作である。いや、傑作というだけでは足りない。これは重大な映画である。私はフェッリーニの「甘い生活」に接したときも、ついに映画はここまで正確に現代を表現する能力を得たのかと驚嘆したが、それと同じ時期、イタリア映画が、これほどまで鮮明に人の内奥をつきとめた作品を創りあげていたとは、ただ呆然とするほかはない。このような画期的な映画が一年以上もおくれて入ってきて、しかもよく公開してくれました、などと言わねばならぬのはわれわれの大きな不幸である。
 映画を筋立てだけで辿って行く見方、また登場人物を善玉悪玉で区分けしながら映画をたのしんで行く見方、では、最後までこの作品は理解することができない。作者ミケランジェロ・アントニオーニは、そんな定石の立場一切から解放された純粋な心と眼で、人間の生き方そのものをここでみつめ、人間そのものをここで解剖する。
 主人公の無気力な建築家ガブリエレ・フェルゼッティは、情人レア・マッサーリが突如失踪してしまったあと、彼女の“親友”モニカ・ヴィッティらと、その失踪現場の岩上を、映写時間にして三十分ばかり、ただ右往左往歩き回わる。そこには、何の「筋の進展」もないといっていいが、しかし、「意味の進展」は無限にある。歩くことで人の失踪の意味をかみしめつつ、次第にモニカと触れあって行くフェルゼッティの姿には、現代の人間がもつ孤独のありよう、他人とのつながりのありようの「本質」が、恐ろしいくらいまでに深く深く描きすすめられているのである。
 このフェルゼッティとモニカが、失踪したレアを重く気にかけつつ、いや気にかけるだけ一層濃密に、情事へ溺れこんで行く部分。溺れこみながらも時にまさまざと己れの「ひとりぼっち」を実感する部分。ついにフェルゼッティがまた別の情事へよろめいてしまい、自己嫌悪と屈辱感に泣く彼を、モニカが絶望的な連帯感で抱きしめるラストーー。
 私は、(くりかえして言いたいが)、映画というものがこれほどあざやかに、現代の「人間」の意識の内面を具体的に映像化できるものだとは、想像もしていなかった。これはこれまで文学に追いつこうとして舌足らずな心理描写などを試みつづけた映画が、そんな地点をはるかに越して、映画そのものの表現で「人間」を描いてしまった、ということなのだ。昨年、パリのシネマテークで映画青年たちがアントニオーニの旧作上映に殺到していた風景の意味を、私はここではじめて知った。
『映画ストーリー 11(3)(127)』