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フル・モンティのotomisanのレビュー・感想・評価

フル・モンティ(1997年製作の映画)
4.1
 そういえば日本でも電線やマンホールのふた、果ては何かのボルトナットまで抜き取って盗まれるという。ただ、それは取られる側からすれば盗まれるのであって、持ってく側からすればおまんまのネタの仕入れだったり、親権確保の手段だったりする。
 親権確保という事は貧乏な父親のこころを支える基礎作りである。その上に倅も乗っかって「共に生きられる」ということである。もっとも失業オヤジの基礎は不安定だから、当の倅にも逃げられたりして、親父も掘に落ちたり元ツマの再婚先で赤っ恥の掻き通し、サツのダンナにも厄介かけて生傷が絶えないのである。

 こっそり行う泥棒もうまくいかないのに、女ばかりどっと集めてポルノショーを仕立ててたんまり儲けようという頭の切り替えが恐ろしい。
 そこに受益者負担というのか共同経営者というのか親権の及ぶ先の倅も抱き込んで同類挙ってコーポレートするところに英国の英国らしさを感じる。
 これはなんというか、電磁気学だの進化論だの奇妙で突飛な考えで世の中を牽引して来た者たちが湧いて出る地の基層とはどんな泥沼?ウワッこんな泥沼か、というところだろうか。その同じ泥地から「権利の章典」も湧くしパレスチナ古来の問題に再点火して加油する無神経な計略や欲まみれにアメリカだのインドだのを占領しても未だ止まない企図の数々を打ち出す、良く言えば土壌でもあるし悪く言えば毒素猖獗の地でもあるだろう。もちろんその元は当の英国人歴代、倅や娘によく似たオヤジや母ちゃん、爺ちゃんやばあちゃん等の死屍累々である。

 このように、この映画の値打ちは脱ぐのは男だけ、なところにある。しかし、それは女相手に脱ぐわけで女の支持がなければ成り立たないギブ・アンド・テイクというわけで、英国の男と女は好一対で貧に窮しても最後は男の足掻きを女が受け止めて貧乏も無職も最低限の低空飛行を連理比翼で支え合うという事である。
 こんなオヤジと母ちゃん、もう書面上は分かれてしまったけど、それでもこんなおやじとかあちゃんを見ながら倅は音楽担当重役としてこのコーポレーションを支え、その利益でオヤジの共同親権を支持し「権利」として公認されないところのその意思、「我が権利の主張」を譲るところがないワケである。

 その点、近年、明文化が動き出していそうな英国の法律が長らく明文化を避けて来た事情の背景がジワリと感じられるだろう。英国人の、法文書に拘束されて込み入った事実を事例研究に乏しいまま捏ねられた言葉足らずな法文の記述で無理に裁断され、判決と称した無理無体なぞ被って堪るか、という、被疑者有理を示す判例がなんかあるだろうバカヤロー、とゴネて止まないしぶとさである。この映画ではそれを倅の共同親権確保への戦いとしての男ポルノショー断行で叩きつけるのである。

 映画はフル・モンティの瞬間で途絶えるが、それはそれ以降司法の関与するところとなるため上映禁止、ということである。
 しかし、警察の検挙はステージの男どもの数十倍を数える女たちの抗議で大騒ぎとなるだろう。それにマスコミが飛びついて、労働党が飛びついて、「英国病」の新症例と社会科学が飛びつくのである。
 ステージで、営利目的で、青少年育成上?フル・モンティをどう捉えるのがいいか知った事ではないが、死んで焼かれて清らになるのが好きな日本人には、この親父やかあちゃんら、あの倅の20年後30年後のその連れ合いから孫子に至る共々がいづれ死んで、フル・モンティな泥沼の環境DNAにフル・モンティ要素を継ぎ足してゆく事に思いを致すのはいい暇つぶしになるだろう。ひょっとすると進化論を越える思い付きが湧いて出てショック死するかもしれない。
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