すかちん

ファースト・カウのすかちんのネタバレレビュー・内容・結末

ファースト・カウ(2019年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

『ミークス・カット・オフ』のラスト・シーンでミシェル・ウィリアムスの視線の先にあったのはこれだったかと思う。

淡々たる自然描写をし、自然音を際立たせるライカートの手法。なにも劇的なことは起きない「ウエスタン」。美しい川、岩、木々、落ち葉、空、それらをぼんやり眺めているだけでは環境ビデオ、深夜のNHKで流れているような映像だ。暗い夜の森の場面が多いこともあり眠くなるかもしれない。

けれども、その淡々たる日常の中継を、耳を研ぎ澄ますように集中して見ているとどの1カットも「豊潤」であることがわかる。きのこをひとつひとつ丁寧に摘んでゆく、新しいブーツをしみじみとながめさする、油の中でわき揚がってくるドーナツを真上から撮ったカット、汚れた手を川に差し入れるその水の清廉なきらめき、湿ったシダの森を踏みしめる音、調子っぱずれのフィドルの音、一頭の牛を乗せてゆっくりと流れてゆく小さな舟を愛おしむようにカメラが追う。神は細部に宿りたもう。繰り返しのような日常のなかに「幸福」も「希望」も「絶望」もある。

この映画は冒頭のエピソードのみ「現代」から始まる。一隻の大きな船が川をゆっくりと移動する。川べりで犬が地面を掘り返している。また別の船が同じ川をゆく。ジャン・ヴィゴの『アタラント号』、石田民三の『むかしの歌』をほんの少し思い出させる。犬の飼い主らしき女性が土の中からなにかを見つけ出したところで、すでにこの映画の結末は予告されているのだが、その女性がふいに顔を上げると、鳥たちが梢を飛び交い、さえずりあっている。女性がほのかに笑みをこぼす。同じ川、同じ土、同じ空、同じ鳥。そして船はゆく、そして人生は、世界は続く。

ケリー・ライカートの、この映画での人生観のようなものは、ある種古典的であり、言い換えればラディカル(根元的)である。それはタイトル・ロールのすぐあとに引用されるウィリアム・ブレイクの詩の一節にあらわれている。主人公はふたりの男性だが、ホモ・ソーシャルな、ましてやボーイズ・ラブのようなにおわせは微塵もなく、シスターフッドの対称項としてのブラザーフッドを前面に出しているわけでもない。ひとり(キング・ルー)は中国出身でひとり(オーティス"クッキー"フィゴビッチ)は名前からしてロシア系のようだし、頻繁に登場する先住民たち、ロシア商人、数少ないが黒人、アメリカのフロンティア(西部)が移民のサラダボウルであることを、ことさら強調するわけでもなくさらりと描写している。属性に関係なく、人は夢と希望を持たなければ生きてゆけない。それを持続させるためには、寒さをしのぐ衣と日々の食べものと休める寝床、そして夢と希望を共有し協働できる相棒が必要だ(出会いはたまたまでも、短期間でも)。ひとりでは生きてゆけないのだ(『ウェンディ&ルーシー』のように)。あまりにもベタな言葉を使うなら、それを「友情」と呼ぶ。

この映画の結末ははっきりとは描かれない。「完」ではない。おそらくこうだったんだろうとは予想できる。ぶつりと暗転し、観る者は突然放り出されて途方に暮れる間もなくエンド・ロールが始まる。悲しみはない。肩を寄せ合って眠るふたりの安らかな顔は、冒頭の現代の女性の笑顔に転生する。人の寿命は尽きることがあるが、夢と希望は続いてゆく。誰かが継げばよいのだ。誰かが誰かと一緒に継いで、次の誰かにまたつながればよいのだ。夢と希望は達せられる「結果」が重要なのではなく、「過程」のなかにあるのだから。
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