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Krabi, 2562(原題)のニューランドのレビュー・感想・評価

Krabi, 2562(原題)(2019年製作の映画)
3.7
☑️B・リヴァース『クラビ、2562』『ゴースト・ストラータ』他、及び、A・ヴァス『オクシデント』『アトミック・ガーデン』『陸が見えた!』他▶️▶️
作家本人に質問するのに、誰もがすぐに思い浮かべるアピチャッポンの名前を出すのは禁句なのだろうなぁと思ったりする。一見影響下のようで、いつしか失踪する正体の掴めぬ者、当地の不思議な謂れとその今も生きる徴し、撮影クルーや廃館劇場等社会システム・歴史の機能残すもの、能天気で妙に明るいキャラ(陰を秘めつつ)、原色・陽光・蒸し暑さ・自然・生活と観光の張り詰めた空間と時間、楽屋落ちとも云えぬあっけにとられる括りの一部、細かさや速度とは無縁の大まかなでもどこかピンと張ったデクパージュ。しかし、アピチャッポンの作品が不可視・霊的・歴史的な根っこで結ばれてゆくような深さがあるのに、本作は似た要素や結び付きを予感させても、勝手に並行したままで、妙に明るい。アピチャッポンとは別に好ましく思ったし、元々は互いにどこか近い、文明・歴史・個人史的な超常的とも見える内面性の現れも見せるこの作家の、一転ナチュラルで全体にどこか解放されて心地いい面が呼吸していた。共同監督作品・短期撮影ということて、作家のエゴから解放された部分があると作者は語っていた。とはいえ、ホール上映のもう1プログラムも、短編3本の1本は過去の上映作品であり、初見作も竹林に中間字幕の会話はいるモノクロポジとネガの境目トーンの挿話以外は、もうひとつ、インスタレーション作品も含め、薄味には違いない。
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が、熱心には、というより観たいホール上映作品の上映回数が限られてるので、アーニー・ゲール等本命作も観れない侭でも、今年もこの映像祭で嘗ての驚愕作ピニェイロ『盗まれた男』クラスの新星と、何の予備知識なく出会う事が出来た。ポルトガル・ブラジル・福島等をロケしつつ、(旧)植民地・先住民・旧文明・原発事故をあからさまでなく深い所でからませ位置と距離を微妙に計って、柔軟・かつ強固に本質を撃ちつつ、同時にそれ以前に表現の自由さ・大胆さ・汎用性が観る者にすべての世界の見方を鍛え豊かにしてくれる、若い女性作家の短編集である。歴史的社会的な背景を持つ人種・古風台詞・年代物・現在光景を絡め、支配・略奪・蹂躙されたか忘れられた美術品・遺跡・自然・動物・人間・意識の、定義されると同時に内的に存在をやり直すようなピュアな甦りとあり方。それは明確に文脈として理解できずも、より広い美しい強い表現世界・現実世界に行き当たる。黒身から始まり、定義しがたい強烈な音響から始まることも多く、それに拮抗してく以上に跳梁・定着してくイメージの世界が近年見たことも無いくらいユニークで強烈だ。先に述べた対象物に対し、時に主観的にボケ揺れる激しいパンや移動、時にメインと背景光闇が入替わるフリッカー的錯覚もの実に細かく跳び戻るカッティング、歪みや傾け倒し・広角レンズ・執拗な舐めるようなパン捉えで自然・遺跡・動物達の自体想像を越えた偉容が更に有り得ぬ存在性で実在し突き抜ける、また特定の人種等はCU等で現実以上に抜かれ、(旧支配層や移送工芸品等)奢りあるものらの重みをどこか抜いた味ある羅列、平凡な自然に住む者と周囲等は考えられぬコマ撮り以上にの動感・可動範囲の繰返し、等で、作品・そのパート毎に異なって描かれ・呼吸され尽くしてゆく。しかし、捉えられるイメージ・マテリアルだけでなく、カメラの側自体も安定感した客観性を常に逸脱して逐次ハラハラを伴い、二重に画面の確実さを削いで、本当にひとコマ先に何が現れるか収まらない。レンズ・フレーム内に光が浸食、画面に媒体自体の傷や媒体自体を表したような即物的物質の表れ、意識を外れた本質的ボケ・揺れ・リズム・生理、等の危機がある。作者は故国・旧宗守国の自らの体に染み付いた感覚・空気を描いてきたが、現在は福島を越えかなり広範な日本を対象とした作品を数年掛りで制作中であるという。1本毎に音響を除けば、リズム・動感・自然・クリアさについてスタイルは驚くほど違う。しかし繰返すが、ひとコマ先は何が来るか、まったく予測出来ず、観る側の意識を更新・高め洗ってくれる。周囲の現実自体への意識が更新されてゆくようだ。
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