このレビューはネタバレを含みます
重さと難解さに面食らった…
G・グリーンやF・モーリヤックのカトリック小説並みに難しいと思う。
話はただ淡々と進んでいく。もう少しユーモアとかあればよかった…
だけど、観終わったあともずっと、考えている。
あらすじはというと、殺人を犯し少年院に入っていた青年が仮釈放となり、たまたま立ち寄った教会で新任の司祭に間違われてしまうが、青年は元々信仰心があって神学校に行きたかったこともあり、そのまま司祭のふりをして生活する、という話。
コメディにもなりそうな話なのだけど、派手な演出もなく淡々としているせいか、妙にリアリティがある。
本物の司祭がいなくても何ら支障なく町の信仰生活は営まれ、青年が偽司祭であることに気づかない町民からは「信仰の形骸化」がうかがえる。
ミサはもはや習慣的・事務的な行事でしかなく、精神的な(信仰上の)意義は失われており、誰がやっても同じなのだ。
また、人間が本質を見ずに、肩書きや見た目(服装)に簡単に騙されてしまうのも皮肉なものだ。
あるいは、信仰の形骸化とは矛盾するけれど、信仰において、神が存在するか否かや、神の代理人として司祭に特権的に与えられている超人的な力(罪を赦すなどの神性)そのものは重要ではなく、信じる側の信仰心こそが重要である、と捉えることもできる。
この映画の鍵となる自動車事故に関しても、町の人々の信仰心が問われることになる。
当初、町の人々は加害者の男性に対する憎しみに駆られ、町での埋葬を頑なに拒否する。
これはどう見てもキリスト教の赦しの精神に反するのだが、誰もその矛盾に気づかない、あるいは認めようとしない。
信仰が人々の生活に根ざしていないこと、内的・実質的なものではなく、表面的で偽善的なものであることが顕になる。
本来ならば、そういう辛いときにこそ、キリスト教の教えが信者の行動や考え方の指針となり、怒りや憎しみや悲しみを取り除き、心に平安を与えるはずなのに。
怒りは罪である。憎しみも罪である。
だが、自分が当事者となった場合に、「赦しなさい」「愛しなさい」という聖書の教えを実践することが、いかに難しいか。
人間は簡単に怒りや憎しみにとらわれる。愛する家族を奪った加害者を許し愛することなど、人間の力でできることではない。だから神が必要となる。
殺人犯の青年が偽司祭としてやって来るまでこの町に神はいなかった、と言ってもいいかもしれない。
終盤、青年の正体を知った町の女性が青年を非難せずに祝福の言葉をかけたのは、町民の憎しみを取り除き平安をもたらした彼の本質を見たからだろう。
町民を説得して加害者の埋葬を認めさせるという業を成し遂げたのが、町の司祭ではなく、殺人犯の偽司祭だという皮肉。
罪深い者こそ最も神の近くにいる、というグリーンが描いたテーマと重なる。
グリーンの作品と同じく、「罪を犯してはならない。だが罪を犯さないと神に出会えない。」というパラドックス(逆説)がここにもある。
加害者を町に埋葬するよう青年が主張した理由は、自分も過去の罪を許されたかったから、殺人を犯した自分でも許されると思いたかったからだろう。
ところがそこに、「更生を許さない社会の不寛容さ」が立ちはだかる。
少年院から出たあとに彼が就けない職業は、聖職者だけではないだろう。
青年に聖職者の肩書と役割を与えれば、彼は内外ともに本物の聖職者になっただろう。
逆に、「人殺し」「元犯罪者」の肩書きと役割しか与えられなければ、彼はそれに応じた凶悪犯になっていく。
彼自身の信仰や人間性や更生の意思とは無関係に、「ラベリング」(レッテル貼り)によって、彼はラベルに応じた人間になっていく。
「聖人か?それとも悪人か?」
彼は「聖人」でもなく「悪人」でもない。
灰色で混沌として矛盾に満ちた「人間」そのものだ。