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Love Massacre(英題)のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

Love Massacre(英題)(1981年製作の映画)
5.0
[愛と殺、相反する要素が共存する魔法]

人生ベスト。徹頭徹尾異様で不気味な映画。大衆的ジャンルの見直し的探求を使命としていたらしい香港ニューウェーブの中でも、パトリック・タムは芸術的ヤシンと商業的配慮の間で揺れ動き続け、その緊張と矛盾を鮮明に提示し続けた監督らしい。そんな彼の監督二作目が本作品。舞台はサンフランシスコだが、そんな感じもせず、ただただ香港から遠いという地理的な要因で恐怖を煽る一要素として機能しているのがまず興味深い。映画はジョイとルーイというカップルが喧嘩して、精神的に不安定なジョイがリスカする場面で幕を開ける。誰もいない橋の上で喧嘩しているんだが、理論限界くらいの望遠→超接写を交互に配しているリズム感と緊張感が凄い。しかもリスカして血が出た瞬間に真っ赤な文字で"林青霞(ブリジット・リン)"とクレジットが出てくるので、いきなり画面いっぱいに血が吹き出したのかと驚かされた。次いで登場する張國柱は青、"愛殺"は愛=赤文字=林青霞、殺=青文字=張國柱となっていて、不気味な映画の行く末を提示している。

主要人物は四人しかいないのに設定は中々複雑だ。主人公アイヴィはジョイの同級生(大学?)で親友、ルーイとも親しく、たまにサンフランシスコを訪れるジョイの兄チュウチンとは恋人のような関係になっている。ジョイは自分の兄とアイヴィが付き合ってることに不満たらたらで、ルーイは妹のことに干渉しようとしないチュウチンを訝しんでいる。チュウチンはジョイのことでアイヴィから呼ばれて渡米したのに、ジョイをほったらかしてアイヴィと遊んでいる。ヤバい人がいなくてもなにか問題が起こりそうな関係性なのに、しっかりヤバい人が紛れ込むので、想像を超える問題が起こってくれるので、その相乗効果が楽しめる。それによって、本来共存するはずもない"愛"と"殺"が共存しながら、何の引っ掛かりもなくヌルっと主成分が入れ替わる様は美しさすら感じてしまう。

それ以外にも、本作品は色を使って恐怖を煽ってくる。というのも、登場人物のほとんどが全身真っ白コーデ以外着ないのだ。貧血を起こしそうなほど青みがかった画面と白い服を来た人物、そして彼ら彼女らの表情の無さが絶妙にマッチして、"愛"の平時ですら不気味な雰囲気が漂っている。そして、"殺"に足を踏み入れていくと、白い服は真っ赤な血で染まっていくわけだが、前半の不気味さはそのまま継承されるので、血みどろな虐殺がより不穏で悲惨なものに様変わりする。決定的に入れ替わる直前でアイヴィが真っ赤なワンピースを着ているのも印象的(実は冒頭も真っ赤な車から真っ赤なドレスで降りてくるブリジット・リンが登場する)。逆に白服から逸脱した人物がどうなるかという恐怖も同時に味わうことを意味している。例えば食いしん坊少女ディディは、人のサラダ食べた上でトラップ(ガラスの破片入り)に引っ掛かって逆ギレし、近付いてきた足音=アイヴィを追ってきたチュウチンにスイカ一玉ブン投げる人物なんだが、彼女が終盤で登場したときは上下青の服を着ていて、ちゃんと殺される。白い服を着てるから無事というわけでもないのも絶妙なハズしになっていて、常に白い服を着ているアイヴィがそれによって運命が決定付けられているわけではないのがまた不気味。

話しているアイヴィを向きながら次のカットでイマジナリーラインの反対側にいたり、チュウチンが引くほどのタバコ箱を買ってきたり、ルーイとアイヴィが窓辺で話していると不意に窓の外から二人を覗くショットになったり、ジョイが後半に掛けて忘れられていったり、様々不気味な瞬間や時間があるんだが、あれだけ人を殺しといてチュウチンに愛着が湧いてしまうラストが凄まじい。一番死にそうだったルーイは白馬の王子様にすらならずに退場し、物語の責任をすべてアイヴィが背負うラスト。そして、冒頭で赤いドレスを着て砂丘を歩いていたシーンが繰り返されるのが、再び"愛"に戻ってきた瞬間のようで更に泣けてきた。もう誰も戻ってこないのよ…
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