プリオ

すばらしき世界のプリオのレビュー・感想・評価

すばらしき世界(2021年製作の映画)
4.5
鑑賞後に、宙に投げ飛ばされる、そんな感覚になりました。

よくある犯罪者更生物語かと思いきや、ラスト15分の展開は予想だにしないもので、受け身がとれなかった。

映画におけるテーマってあるけど、この映画はそれが明確に提示されてない感じでした。ただ事象を提示して鑑賞者に考えさせるスタイルかと。

この「すばらしき世界」を我々はどう捉えるのかー。

僕が映画を見て考えさせられた事として、大きく三つありました。

まず、一つ目は、世界を移行する難しさ。

役所広司演じる三上は、人生の大半を刑務所で過ごしてきた男。

そんな彼は「瞬間湯沸かし器」のように、おかしいと思ったらズドンと突っ込んでいく性格をしている。

それは真っ直ぐな性格と言えば聞こえはいいかもしれないが、日々生きていて感じる葛藤が怒りに帰結し、さらには暴力に変換されてしまう彼の場合、社会では生きずらい資質でしかない。

感覚的で、野生的で、暴力的な男。
理性や論理、言葉をもってない男。

そんな三上は周囲のサポートもあり自分を変えようとする訳だが、これがなかなか難しいことが、映画では描かれる。

自分を形作ってくれた「古き世界」から脱却し、「新しい世界」に飛び込むことは、とっても難しいんだな、と思いました。

たぶん、ヤクザという暴力的な世界で生きてきたから、シャバに出てもそういう世界がやってくるのでしょう。

暴力的な場面を見つけ、暴力をもって制する。

その時の三上の顔は輝いていたけど、ちょっと怖いし、悲しくもありました。


二つ目は、「ふつう」の是非について。

今作で出てくる「ふつう」は、三上にとっては、社会に合わせて生きていくことである。

それは同時に、本当の自分を押し殺して生きていくことでもある。

人は抱いた感情とそれに伴う行動が、矢印として同じ方向を向いているとき、ストレスなく生きられるが、三上の場合、社会で「ふつう」に生きていくことは、矢印が逆方向を向いてしまうことに他ならない。

それは三上だけでなく、誰しも少なからず経験したことがあると思うが、そんな日常が長く続けば、それは多大なストレスになることだろう。

社会に合わした「ふつう」な生き方がいいのか、自分に合わした生き方がいいのか、どちらがいいのか、考えさせられましたね。


三つ目は、差別について。

人は自分の安全安心が大切なため、自分と違う人間を排除する節があると思う。

それを差別と言われたら、そうなのかもしれないが、前科のある人や元ヤクザと距離を置きたいと思うのは、僕だって同じで自然なことのような気もする。

ただ、攻撃的な差別心に溢れた人がいるのも事実だろう。

社会から外れているものを悪く言うことで自分たちの安全を確かめたり、自分より下を見ることで正気を保つ人たち。

そんな人たちにはなりたくないと思いましたね。


最後に、言わずもがなかもだが、役所広司の演技が素晴らしかったですね。彼の佇まい、思わず泣き出す表情、爆発寸前の目など、忘れられません。

演技が上手いっていうか、もうそのレベルの話じゃないというか、超越してるというか。

まぁ、好きな演技、という言い方にしときましょうか。

演技が上手いっていう解釈って、人それぞれにあると思うからね。

演技が上手いことを、
「半沢直樹」みたいなオーバーアクションを指す人もいれば、是枝監督みたいな役者のナチュラルさを重視した演技を指す人もいる。

オーバーアクションによる顔芸とかはある意味演技上手いなーってなるし、でもやり過ぎるとなんか笑っちゃうし。

ナチュラルぶっててもなんか寒いし、ナチュラルに見せかけただけの若手俳優の演技とかは見てられないものもあったり。

だから、演技の上手い下手を語るのは難しい部分があるので、「どんな演技が好きか」にシフトチェンジした方がいいんだろうな。

明らかに演技が下手だなって子も、それはそれで役者自体の不器用さとか人間性が見えてきて楽しめますし、そういう意味では下手な演技でも楽しむことができるんですよね。

だから究極、役者のことが好きにさえなれたら、役者としても映画としてもある程度勝ちなんでしょうね。





ーーーーーネタバレーーーーー





母との和解的な展開かと思いきや、自分と向き合う展開になり、最後は自分を押し殺して、ついには本当に死ぬという筋書き。

見終わってみると、すばらしき世界というのも、皮肉にしか聞こえない。

<ジョーカーとの比較>
己の暴力性を、解放するか、抑え込むか。

ジョーカーは、自らの衝動を解放して終わった。道を踏み外した。
三上は、自らの衝動を抑え込んで終わった。道筋を通った。

抑え込むことで社会に適用して生きていく。それは自分を変えることで生きていく、ともいえる。葛藤や障害を乗り越えて新しい自分になる主人公は、物語における鉄板であり、そんな姿に我々は感動するわけだ。

しかし、今作の場合、少し特殊だ。
なぜなら、自分を変えたがために、死ぬからだ。

主人公が死ぬ映画はたくさんあると思うが、その多くは誰かのためにという「自己犠牲」的な要素がある。そして、そこに感動できるように物語は作られ、テーマや主人公の貫通行動は担保される。

しかし、今作の主人公の場合、誰かのためにというような人もいない。ましてや三上は誰かに必要とされたいと思っているような孤独な男だ。

そんな男が社会で生きていくために(そこには周囲の期待に応えようとした部分も少なからずあっただろうが)変化した。

しかし、変化した矢先で、死ぬ。

これは、物語を見ていく中で心に溜まっていったものが、いきなりひっくり返される感じだ。

この映画は
何がしたいだ?
何がいいたいんだ?
ってなる人もいると思う。

僕も実際そうなった。

見方によったら、ものすごい後味が悪いからだ。

僕個人としては、自分の衝動を抑え込むことだけでも悲劇なのに、さらに死んでしまうなんて。

そんなこと、あっていいのか…、と。

悲劇の中の悲劇って感じで、かなり重い。

でも、なぜか、爽やかな気持ちにもなる、そんな不思議な映画でした。

<メタファー読み>
嵐は、
三上の心を表していて
暴力を抑えこめた事による
やるせない怒りともとれるし
達成感による喜びともとれる

コスモスは、
ささやかな幸せ、かな?

<印象的なセリフ>
「撮らないんなら割って入ってあいつ止めなさいよ。止めないんなら撮って人に伝えなさいよ。上品ぶって、あんたみたいなのが一番なんにも救わないのよ」

「もっといい加減に生きてるムカつくても受け流すんだよ。耳塞ぐ、聞こえない」

「聞こえない、深呼吸」

「本当に必要とするもの以外切り捨てていかないと、自分の身守れないから。全てに関われるほど、人間は強くないんだ。逃げるのは、敗北じゃないぞ。勇気ある撤退って言葉があるだろ。逃げてこそ、また次に挑めるんだ」 

「あなた自身を大事にしてもらいたのよ」
プリオ

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