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カサノバのsleepyのレビュー・感想・評価

カサノバ(1976年製作の映画)
4.4
人生は(後の)祭りだ****



    原題:IL CASANOVA DI FEDERICO FELLINI 1976年、155分。18世紀の実在の性豪ジャコモ・カサノバによる回想録「我が生涯の物語」からだいぶ離れた内容を持つようだ。信憑性、真実を云々するものではなく、原題が示すようにあくまで特異な「フェリーニのカサノバ」(実際はカサノヴァ、だろうが)。寒々しい映像のイマジネーションをいかんなく羽ばたかせた傑作。

人生はあっという間に過ぎ去ってしまう。どうしようもない性(さが)と疲労が詰まっている。Death is a best friend of all generous and unlucky souls… 滑稽でグロテスクな人間(見た目も中身も)大集合。しかし中ほどから俄然、侘しさが増してくる。情熱の求道者(?)カサノバの魂と肉体の遍歴の物語。心身の衰退は止めようもない自称芸術家、文筆家でビジネスマンの色事師カサノバ。人生の冬をここまで幻想的かつ厳しく描いた映画はなかなかお目にかかれない。

回想とも現実とも幻ともつかぬ映像が次から次へと展開され、ハッとするアーティフィシャルな美しさに息を飲む(特にオペラ会場の蝋燭シャンデリアや、霧の、雪の原野、牢獄の夜の屋根、書割のような月、馬力ブランコ(?)などなど)。この美術・衣装のダニロ・ドナティの仕事が素晴らしい。絵面のきれいさ、構図の良さのような一般的な美しさとはとは異なる妖しさがある。ほとんどがセット(あるいはオープンセット)で、箱庭的な部分もあるが舞台的ではなく、奥行きが感じられる。本作のインパクトは、まずそのビジュアルにあるといえる。

フェリーニは映画の本道ともいえる脳裏と肌にまとわりつく映像のタペストリーを織る。唯一無比のそれは映画における人工美の極致の一つだ。これが当時の異世界のような欧州の猥雑さと、カサノバの空虚さをかなり引き立てている。簡素化され、あるときは誇張されたシンボリックな美術と、過度に装飾されたドギツイ衣装は非現実的であり、ビザール。いわば模造、イミテーションの世界。そして、模造のような彼の人生。

彼のプレイは、逃げられない呪いか奉仕の運動、性の消費の如くで、誰とも真に交わることはない。相手にとっても営みははいっときの快楽でしかなく、男としても識者としても誰からも顧みられない。インスタントな愛だけを追い求めていたのか否かはわからないが、カサノバの肉体は欧州をさすらった。魂はいつも自身の作った牢獄、あるいは束の間の情熱の虜囚だった。性の放浪者、バカボンドだが炎は必ず消える。

なんといっても「あの」イザベラが、脳裏に焼き付いて離れない(ラヴドールの原型)。最初の登場は思わず笑ってしまったが、2回目の登場ではなんだか(カサノバにとって)血がかよったものに見えるから不思議。とはいえ、凍てついたヴェニス(ヴェニスの水が氷ることは現在ではほとんどないらしい。彼の心象の表現だろうか)、氷面下に昏く沈んだあのオブジェ、寒々しい広場が、opのあのフェスの華やかさと対比され、彼の人生の末路、旅の終点の寂寥がビシビシと迫って、なんだか切なくなってくる。この10分は居た堪れなくなる名シーンだ。残念だがこの年になって片鱗が理解できる。やはり本作のテーマの1つは「老い」であり、フェリーニはこの時56才ぐらいだった。

結局、彼が最後に思い返す人(?)がイザベラ(と見世物小屋の大女)であり、彼女(?)との「永遠の恋」だけを思いつつ、彼は生涯を閉じるのだろう。夢の中でくるくると、ただ2人のダンスを続けながら・・。母も含め、みな彼に背を向けたが、彼女(?)だけは変わらなかった・・(そりゃそうだ)。フェリーニは冷徹にこの男を突き放すが、でもどこか少しのシンパシーも感じられないだろうか。

幻のような人生の四季、その一編の紙芝居。フェリーニは「人生は祭りだ」と言った(と記憶している)が、本作には祭りの後の寂しさが漂う。というか本作の場合「人生は(後の)祭りだ」。フェリーニはやっぱりいいなあ。
最後になったが、フェリーニとの名コンビ、音楽のニーノ・ロータはここでも最高だ。いくら誉めても賞賛しすぎということはない(いつもそうだけど)。

★オリジナルデータ
IL CASANOVA DI FEDERICO FELLINI(英題:FELLINI'S CASANOVA)1976年(日本公開は1980年)伊=米, オリジナルアスペクト比(もちろん劇場上映時比を指す) 1.85:1(Spherical), 155 min, カラー(Technicolor), Mono, ネガ、ポジともに35mm
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