シーケー

花束みたいな恋をしたのシーケーのネタバレレビュー・内容・結末

花束みたいな恋をした(2021年製作の映画)
3.4

このレビューはネタバレを含みます

前にとても話題になっていた映画を今さら見ました。たくさんの固有名詞も恋愛の色々も水辺の扱いも書きたいことはたくさんあるけれど、一番はNANAのことです。

発表に20年くらいの時差はあるけれど、実は偶然出会った20歳くらいの二人が多摩川沿いの古いマンションで一緒に住む話という共通点がある(東京に移り住んで暮らすことに土地性を持たせようとするとき、川を象徴にするのは正攻法だろう)。その得られたホームで、2人の価値観や置かれた状況がどう同じでどう違うかを起点として物語が展開していく構造も似ている。
そして2つの作品を並べて考えると、4人のうち3人が同じ性質を持っていて、1人が違うことが多いことに気づく。
・男性は麦だけ
・文化に興味がないのがハチだけ
・東京が実家なのは絹だけ
・「何者か」になれているのはナナだけ
・働かなくていいと思っているのはハチだけ
・社畜になるのは麦だけ
・メンタルが不調なのはナナだけ
こんな整理を色々して2つの作品が縦軸横軸みたいになっているのを見ていく必要があるけれど、NANAがあの時代にインパクトが大きかったところを起点に考えると、社会とかみ合って自己実現しているナナより、恋愛や男に依存しようとしているハチの方が強くて世界の中心にいるという感覚があることが中心だ(後半子供を産むとタフになるという部分も含めて)。
その視点だと、この映画の麦と絹はどちらもそんなに強くなくて、最終的には東京が実家で稼ぐ圧力の弱い女性の麦が趣味を保てて、麦は中小企業で社畜になって思いやりの余裕はなく文化的にありきたりな大衆になる、といった日本社会と労働と生活の背景が浮かび上がる。言い換えれば「大人になる」ことの違いの話だ。でもこの映画のいいところでもあり悪いところでもあるのはそれを単純な男女の恋愛における違いとか別れのあるあるとして納得させるところだ。二人が文化的に価値観的に同じである部分の喜びと恋愛の喜びを合わせて伝えるのも同じ構図にある。そしてそれは多くの人に共感性羞恥を呼び起こすくらいの効果をあげている。
そんなことを考えながらNANAを読み直したいと思った。ナナとハチの同じところは、共通した価値観は何だったのか、むしろ2人が違うことでどんな成長が描かれていたのか。この映画にないそこを見直してみたい。

(書いていて気づいたんですが、日本社会の話を抜きにするなら、単に恋愛と成長の話としての名作の「500日のサマー」と比較するといい気がしました。)