「これから君にいくつか質問をする。正しい答えも間違った答えもないよ。」と
いうインタビューの言葉で始まる、
この作品は、とてつもない深い映画だ!と思う。
よくある、日頃子どもと接していなかった大人が子どもに影響されていくというようない簡単なヒューマンものじゃない。
そんな簡単な映画じゃない。
人と人との関係、コミュニケーションの在り方みたいなものを丁寧に、丁寧に
問い直した作品だと思う。
あまりに大事なワードが次から次へと現れてくるので、2回続けて観て、2度目はそれらをメモしながら観た!
ホアキン・フェニックスは、全米の青少年にインタビューする仕事をしている。
全編に散りばめられている子どもたちの言葉がどれも素晴らしい。
小さな背で、まだ変わる前の声で語られている一つ一つが魂を持ち、個性的で、輝いている。
ホアキンは、どんなに小さい相手でも、リスペクトしてインタビューしている。
そんな彼でも、どう扱っていいか、精魂尽き果てさせてしまう相手とは、、
バットマンでも、警察でもない😅
9歳の甥っ子ジェシーだ!
あの「ジョーカー」が、おもちゃ歯ブラシを買うことや洗髪することに悪戦苦闘するさまは、とても興味深いし、
あの歴史的怪演の次作が、9歳の子との対峙作という、ホアキンの何とセンスの良い出演作チョイスか!!
さて、自分のメモを生かして書きたいのだが、なかなかまとまらない。
伝えたいのは、わがままな9歳の甥の世話に手を焼く伯父の話ではないということ。
ジェシーは時として大人以上に優れた感性と表現力で伯父のジョニーをたじろがせる。
映画の中で、伯父の接し方に落ち度はまた全くない。仕事の調整をしながら、妹を、甥っ子のために頑張っている。
その都度、妹(ジェシーの母)と連絡を取り、とにかく一生懸命世話をしている。
でも、9歳は時に言葉や表面上の行為の裏側を突いてくる。
伯父の「僕はみんなの幸せを望んでいるよ。」という返事に対して、
「薄っぺらい」と返す。
伯父の問いかけを無視して、逆に「なぜ結婚しないのか?」と問いただしたり、
兄さえ知らなかった妹(ジェシーの母)の秘密を喋ったりする。
そう、この二人の会話が、ちょっとだけズレている。このズレ感が何とも上手い!
この微妙ないズレは、あの年齢の子たちと濃いコミュニケーションの経験をした人でないと分からない。
映画では、本の中から抜粋した文章が紹介されている。
「我々は母親に社会や我々自身の最も厄介な重荷を押し付けている。」
ホアキンの疲労困憊度は、世の母親への賛歌にも繋がっている。
コミュニケーションのズレ、
どんなに親しくても、頑張っても、肉親でも、自分の目の前に居るのは、自分とは違う人格なのだ。
ジェシーは言う。
「ママと僕はお互い愛し合っている。でも、ママは僕の全てを分からない。僕もそうだ。」と、、、(深い〜!)
でも、でも、この映画は、人は分かり合えないと絶望しているかと言うと、
否である。
題名の「カモン、カモン!」
字幕では、「先へ、この先へ」となっていた。
インタビューのされたある子どもの言葉
「未来は、起きろ!と思ったことは起きずに、考えもしなかったことが起きる。
だから、先に進むしかないんだ。どんどん先に、先に、、」
そう、分かり合えないから、こそ、
人は人とコミュニケーションをとるしかないのだ。
映画はそのことを静かに語りかけて終わる
無数の言葉が、音が、現れては消えていく。
忘れて、消えてしまわないように、
私たちはそれを記録する。
ジェシーが伯父の録音機器に興味を示したように、僕らは、価値ある記録として、
映画を観続けてるのだ。