せいか

ミッドナイトスワンのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

ミッドナイトスワン(2020年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

7.22、レンタルDVDにて視聴。レンタルのものが対応してなかっただけかもしれないけれど、めちゃくちゃに字幕がほしかった。登場人物みんなうつむきがちでぼそぼそしゃべる人がわりかしいるので一部聞き取りにくい。

言わずもがなの近年の邦題の話題作で、トランスジェンダーを扱っているということやらなんやらでの注目が目立っていた作品。普段は日本の映画はあまり観ないながらもぼちぼち気になりはしていたので観た。
それでトランスジェンダーはたしかに話の中心にはあるのだけれど、結構、舞台装置としてのライトモチーフになってたというとちょっと言い過ぎだけど、全体が結果薄味みたいな映画になってたので、あくまで取っ掛かりみたいな域というか。

一言でまとめると、作品全体が微妙に説明不足のまま、しかも何かいろいろに浅く広く手出ししていて、うっすら置いてけぼりをくらったまま鑑賞を終えるという感じだった。
作品に共感したいとかそういう話をしているのではなくて(そんなこと望みながら私は作品に触れないので)、もっと焦点絞りきったほうが良かったんでは?みたいな収まりの悪さを感じた。
小説版がかなり本作を補完しているらしいので、気になったような箇所はそのへんで氷解するのかもしれない。

母子家庭で育つ一果を中心に一つの作品としてまとめられていると言えるかと思う。
彼女の母親はまだ若く、場末というか何というかやや乱雑な感じのキャバクラに勤めていて、そこで飲んだくれては客の横で堂々と眠り、学生服のままの娘に迎えに来てもらうところからも既に分かるが、どこに勤めているかということではなくそうではないところでかなり駄目なところがある母親で、酔いどれて近所の人間に八つ当たりをするわ、娘にも暴言を吐くわで、アパートの中も散らかり放題で、「あなたのために」は一部本当なのだろうけれどもそれを楯にして娘を傷つけることには無頓着な人である。ネグレクトメインのDV親。
それでまだ中学生の娘もかなり精神的にきており、無感情といった態度で無口で、自傷癖があるふうに育っている。
そうした彼女の行き詰まりの人生に道を作る作品だったのだろう、たぶん。

DV疑いで一果は母親の従兄弟にあたる人のもとへとはるばる広島から東京へと単身送られるのだが、そこで一緒に暮らすことになるのがトランスジェンダーの凪沙である。ニューハーフショークラブで働いている。
綺麗な長髪で身綺麗にしてヒールを履きこなして(いささかわざとっぽいほどの)女性らしい動きをするが、顔を見ればどれだけ化粧をしていても男っぽさが拭えない、そういうひとである。ホルモン注射は受けているが、実家にトランスジェンダーであることを伏せているからか、声帯をいじるなどは一切していない。……そういうようなキャラクターとして本作では描かれている。
普段のホルモン注射だとか身の手入れなどもそうだろうが、性転換手術は(現状海外でしかできないはずなので)お金がかかるのもあり、普段から貯金に勤しんでいる。マンションとアパートの中間みたいなあまり家賃は高くないほうだろう家に住み(もちろん東京住まいなのでそれでも家賃は高いだろうが)、基本的にあまりお金に余裕があるとは言えない雰囲気が付きまとっている。家の中は清潔感もあって可愛らしくまとまっているといえる。
作中では他のトランスジェンダーの人も出てくるのだが、特に彼女がそうした存在の中心になってそうした苦しみを吐露することになる。

取りあえず、そういう二人が主人公といえる(が、上記したように特に一果を中心としている)物語である。
メインとしては社会に疎外されて行き場もなくそれぞれの孤独を背負った二人が触れあうことで変化のきっかけを掴んでいくという話の流れといえる。


のだが、とにかくなんというか最初に言ったように置き去りにされながら話が進んでいくので、とにかくずっと「なんでそうなる?!」の連続というか、なんというか。
とにかく一果がまともにずっとコミュニケーションをとらないわりにうまいように話が進むので優しい世界だと思った(+才能って大事なんだなーそれだけで見放されないもんなー感)。心を閉ざしているからという設定があるにしても、それでどうやってここまでこれたのというところまで話が進みすぎる。凪沙のもとで過ごすうちにいろいろあってだいぶ心を開くようになりましたとなった後もここぞというところで全くまともに自分の意志を出さないので(広島で凪沙が迎えにきたときは母親のしがらみに押さえられるとかはありましたが)、精神に傷を負った中学生とはいえ、何か言えないのか?と思う箇所があまりにも多すぎる。
特に、バレエをやりたいとめずらしく自分の意志を言葉にした上で大会に出るのだけど、二曲目で踊れなくなってその結果母親にまた囚われるのとか、これに出るのに周囲もどれだけ自分のために頑張ってるのかとか(特に、作中でも触れられていたけど、大会に出るのってすごいお金かかる)、自分が勝ち残って今そこにいるのだということを分かっててそこでやめるのかよというか。いや、つらいのとかは分かるよ、分かりますよなんですけど。心を閉ざしきったままのクソ無口な変な子供のままでもバレエ教室に飛び込むだけの勇気と無謀さを持ち合わせて幸運のままにここまで来たんじゃないのかよというか。
そもそもいくら心がそれをしたがってても東京に仮住まいで心許ないまま来た状態でカネがかかるの分かってるだろうバレエ教室に体験でも行くかよとも思うのだけれども、あまりこの辺言い過ぎると私が自己責任社会を良しとしてるみたいに取られかねないので言いませんが。そういうこと言ってんじゃなくて、あんたその状態で何考えてんの?て話である。居場所とか自分が求めてるもの、やりたいことに自分から取り組むのは大変えらいし素晴らしいことだとは思いますが。

作中、特に『白鳥の湖』の物語がオーバーラップしてることは明らかなので、ろくにしゃべらないしろくに自分の意志を伝えない一果とは、白鳥に姿を変えられて抑圧されているオデットと重なるのだろう。そうして抑えつけられながらも王子との恋に落ち、そして王子が誤ってオディールに告白をし、オデットと王子はもはや死によって結ばれるしかなくなったように、オデットに重ねられた彼女もその時点でもはやまともなハッピーエンドは望むべくもないということなのだろうけど(そしてバレエにおいてオデットとオディールが一人二役であるように、彼女自身が自分を破滅に追いやるみたいなそういう『ブラックスワン』的な要素もあるのだろうけれど。もちろん、対称的なりんという存在も別にあるのだけれども)、なんかこう、釈然としないというか。

あとは『アルレキナーダ』も本作では重要な位置にあった。恋する相手である道化師と結ばれることが許されない女が親に無理矢理金持ちの男と結婚させられそうになるし、道化師は逢瀬が見つかって窓から落とされて死亡。でも悲しんでいたら女神が彼を生き返らせた上に願いを叶える杖を授けてくれて金銭問題も解決ヤッターみたいな話です。ハッピーエンド限りなしです。ちなみに道化師を差すのにここで用いられてるアルルカン(ハーレクイン)というのはコンメディアデッラルテのアルレッキーノというキャラクターからきている言葉なのですけど、悪魔的な道化といったポジションにあるんですよね。この作品でそこまで踏まえてるかは知りませんが、少なくとも「道化」ということに重きは置かれていたように思います。
一果とは友人以上の繋がり(このへんの進展も結果的に映画上では雑になんかそうなってたが)にあり、裏表というか、別側面的な境遇でもあった、表向きは恵まれた少女ながらも大人たちの操り人形でしかなくて孤独でやさぐれにやさぐれていたバレエ仲間のりんが、一果が舞台でこれを踊って賞賛されているいる裏側で、どこぞの屋上で開かれている、親のつきあいで来ただけの結婚式で自分だけの世界に閉じこもって踊り、果ては誰にも見られないままに屋上からそのままバレエのジャンプで飛び降りるというのも見事なものでした。というか、ここのシーンが一番グッときました。
抑圧されている二人が違う場所、違う境遇のもとでこれを踊る(そしてまたオデットとオディールも同時に重ねてもいるだろう)ってすごいいい演出でした。才能を見込まれて露骨に先生に応援される形で、ほかの人たちにも応援される形で晴れてコンクールでみんなの注目を浴びながら踊る一果と、親に強制されながらも何だかんだバレエは好きで、でも先生にはそこまで才能を見込まれてなくて(一果が初めてバレエ教室を覗いたときも、彼女は先生から「あなた、プロになるつもりなのよね?」と言われているように、一果のときのように先生はそれならバックアップはしますけど感なのだ)、それなのにもうバレエは続けられない足の痛め方をして、何をしたところで抑圧的な母親からは「バレエがなければ何も残らない」とまで言わたりもしてここまできて、つまらないものに付き合わされて、唐突に踊り出して最初こそ周囲も注目したけれど、他の注目対象が出た途端に誰にも省みられなくなりながらも(注目されたことすらもはやどうでもいいのだが)踊り続けたりん。彼女たちはコロンビーヌを踊りながらも道化でもあり、りんにいたっては窓から投げ捨てられた道化のように、そして最期に王子を追って崖から飛び降りる白鳥のように屋上から飛び降りるわけで、俺そういうの好き演出が過ぎたところなのである。道化師にしろ白鳥にしろその死の先に救いがあったのだけれど、りんの場合ももはや死にしか救いがなかったということも伝わる心打たれるシーンなのである。ほんとにここはすごく気に入った。
そしてさっきは踊らんのかいと一果に対してぼやいたけど、一果の場合は再び抑圧される白鳥として囚われるということがこういう描写ありきの上で表現されていたのだとは思っている。思っているが踊らんか!とは思ったわけなのだけども。ここが勝負の分かれ目よ!!!!
もし二曲目を一果があそこでいろいろを乗り越えて踊れていたら、それこそ魔法の杖を得たようなハッピーエンドにもなれた可能性もあるのではないかとは思うのだなあ。茨の道には変わりないだろうけれど。乗り越えられなかったんだなあ。踊れない娘に対して周囲に見せつけるように舞台上で彼女を抱きしめた「母親」を素直に受け入れたのも、少なくとも映画を観ているだけだと、おまえって感じだったのだけれども。どん詰まりにまた来てやり場がないからとロットバルトになすがままにされて囚われるということなのでしょうね。個人的には空気にビンタしたくなるような気持ちになりますけどね。
というわけで、りんとの関係性をやたら強く描き出したところで思っていたけれど、いっそりんと一果にもっとクローズアップした映画にしても良かったのではないかと思ったりした。それか、もっとがっつり凪沙と一果にクローズアップするか。最初に言ったように、いろいろやり過ぎた結果全体が突っ切ってたり薄味になってたりするので、そうなるくらいなら目標を定めなおしたほうが良かったのではないかなあと、ずっとそういうのは思いながら観ていた。あれもこれも切り離すのが難しいことになっているのも分かるのだけれども。

一果は大会後に自分に依存して束縛するばかりの母親のもとに引き戻されるのだけれども、このときには既に凪沙にとって一果は特別で、彼女の母親になりたいという意識が芽生えていて、思い立ったが吉日よ的早さで(具体的な時間経緯は知らんが)彼女は海外に飛んで性転換手術をし、実家へと向かう。そこでは息子の現実を受け入れられない凪沙の実母と、一果を取られたくない母親によってひたすらに暴力的な言葉が飛び交う地獄があったのだけれども、彼女は(再び心を閉ざして死ぬこともなく自殺願望だけは募らせながら無気力になっていた)一果に対して自分のところへ来てほしいと言うわけである。そんでまあもめにもめて、いかにもふとした拍子にDVを働きそうな母親の今カレどのが凪沙につかみかかり、彼女の上着が破れてやや歪に膨らんだ胸がさらけ出され、実母は悲鳴を上げ、一果の母親は化け物と罵り、そんな中でも一果はろくに何も言えず、凪沙はもうこの場を後にするしかない。その後くらいは追おうとするけれど、それは母親に無理矢理引き止められもする。

その後はまた話が吹っ飛んで、一果は高校を卒業。凪沙に全然母親らしいことを彼女にしていないではないかとか言われたのもあってかというか、たぶん凪沙に一果を取られる隙を与えないためだろう、一果はバレエを無事続けられていた。何なら東京から広島まで先生に通ってもらっていた。レッスン代は大目に見てもらっていたにしてもそれでも費用は嵩みそうなものだし、留学推薦勝ち取ってたくらいなので大会にも出てたはずなのだけど、そのへんのお金はどう工面してたのかは謎のままである。結局のところバレエが一果の精神安定剤みたいなものなのか、少なくとも高校では身綺麗で心を閉ざした様子もなく、母親とも何があったのか、高校を卒業したら凪沙と会ってもいいという約束も取り付けるほどに安定した様子でいる。それはそれでなんだコイツ感はある。わざわざ卒業式当日にバレエのレッスンを入れていてそこで先生から海外留学のチケットをもらいもする。卒業式と合わせることで彼女がもう自由に独りで羽ばたける存在になったことを表してるのかもしれないが。

ともかくも一果はそうして凪沙のもとに行くのだが、凪沙は前に住んでいた、なんだか少し夢見るような所帯じみた空気のあったUR住宅から、打ち捨てられたUR住宅みたいな空気感の漂う建物に引っ越しており、家の中もかつての家具などはあるもののとにかく不衛生で臭い所に暮らしていた。彼女自身もひどい有様で、床にじかに敷いた布団の上にそのまま仰向けになっているのだが、剥き出しのオムツはグロテスクな様相を帯びて布団を汚しており、意識も混濁している。性転換手術後のケアを怠った結果だろう。たぶん、一果を呼び戻せなかったショックからそういう事態を自ら招いてここに至っていたのだと思われる。
一果はそんな彼女の身の回りの世話をするのだけれども、既に時遅し感があの手この手で短いシーンのうちに詰め込まれている。水槽の中がすっかり荒れ果てて生き物の気配もないのに、目がまともに見えないためにそれに気づかずに餌を与えている描写などはかなりきつい。一果と出会った直後は自立していることを誇張するように機敏に動きながら金魚に餌をやっていただけに、こうなっても何とか自力でやってのけるところを見せようとするのが彼女がずっとそうやって戦ってきたことの果てとしてあるというか。性差とか年齢とか関係なくこういう自力でできることを見せようとするというの、世の中にはいろんな形でままあると思うんですけど、切ないものがあるよなあ。孤独とはずっと癒着状態の人生だ。独立と有能さの美徳の歪みというか。

なんというかこの時点で病院行く算段を四の五のいわず付けなさいよなんですが、まあ一果どのなのでそういう積極性は見せず(促しはする)、今の彼女に何も言わず、むしろ凪沙は己の死期を悟ったように海が見たいという要望を出して、一果と共に海へ行くわけです。そして自分が男性として生きるにはズレが生じていることを自覚した、小学生の時に学校行事で訪れた海の話をしたりとかして。同時に幻影を見始め、一果は怯えて病院に行こう、ここから離れようと声をかけ続ける。とにかくずっとなんと終盤まできても、彼女は凪沙に対して自分が彼女をどれだけ特別に思っているのか伝えるとか、凪沙が吐露する苦しみに真摯に応えるとか、そういうことは一切しないわけです。東京で一緒に暮らし初めてややいかがわしいバイトで問題を起こした後に殻に閉じこもろうとした彼女を抱きしめてある種の残酷さと諦念を吐いた彼女にも何も言わずに声にならない拒絶の叫びを上げていた彼女ですが、結局はそういう暗い絶望の淵にいるまま変われていないのではないかと思うのだけど、どうなんだろう。
そんで凪沙に踊ってと言われて踊り、それを見守りながら凪沙は息絶え、彼女はそれに気が付いて海の中に歩を進める(けど結局死にはしないでまたシーンが吹っ飛ぶ)。凪沙はたぶん、美しく踊る白鳥を見たことで自分の中でいろいろなものに決着を取り敢えず付けられたのだろうけれども。

シーン吹っ飛び、一果は外国で凪沙のような格好で堂々と登場し、既に一年以上海外で過ごしてきていることを会話上で明かす。それで白鳥の衣装に着替えて発表のためにステージ上へ向かい、今度はちゃんと踊り出して幕。
一果にとっての凪沙の特別さとか、今の一果もまたこの世界と戦うという意味でも凪沙と重ねての同じ服装なのだと思うけれど、そのトレードマークといえる赤い靴の踏襲がまた不気味に感じた。赤い靴の女の子は何があっても踊り続けるしかないものな、その足を失うまでは。一果は本作では基本的に意志を出さず言葉も出さず、踊ることだけはする、それこそ、バレエがなければ何も残らないと言われかねないキャラクターだったのだけども(結果が出せてるだけほんと幸運なんですが)、なんかもう一生そういうものなんだろうなというしがらみを感じた。最後に踊るのも因縁深い白鳥だし。凪沙から託されたものでもあるのだけど(それもこの文脈ではとにかく不気味なのだが)。彼女は永遠に縛られたまま解き放たれないのではないか。死ぬまで。そして人生ってそういうものでしかないのではないか。つらい。
エンディング後には一瞬、暗いところに座る凪沙に対して差し込む光のような一果というカットがあるのだけれど、おれもうこの作品が分からねえ。確かに一果は独りで戦って尖っていた凪沙にとって光といったところはあったのだろうけれども。

なんというか、そういう話なんだよなんだろうけど、一果がとにかくどうにかならんかったかの感がある。例えば、広島に引き戻された後もこっそり一方的にでも手紙を凪沙に送るとか、バレエの先生を介してやり取りするとかもできただろうし、ド抑圧下にある子供という立場で足掻くことも難しいとはいえ、もう少し相手に掛けられる言葉とかはあったのではないかとかも思うし。本作、ディスコミュニケーションがすごいのよな。本来コミュニケーションがあったのだろうところはシーンがぶっ飛ばされて何かいいようになって話が進むところがあるので故意なのだろうと思うけれど。
あと一果の受けている境遇には諦念の前に大人サイドでやれること他にもあったでしょうなのにそういうの一切ないつらさがえぐい。

トランスジェンダーが受けている問題なんかも本作はいろいろ描かれていたけれど、性同一性の不一致からくる不自由と苦しみ、やりきれなさというものを少しでも一般観衆にも伝わるように描いていたなと思いました。一果のためにお金が必要だからと性風俗をしようとするけれどというシーンとか。まともに社会に出て働こうとしても常識ぶった人々はいたずらな寛容を示してきて普通の人とは同じ土台には立てないのだとか(こういうのはあらゆる種類の差別にもあるガラス板なのだけれども)。あらゆる人間がマジョリティーでもあればマイノリティーでもあるのですけど、マジョリティーの立場にあると(ないしはマジョリティーになれる割合が大きいほど)どこまでも杜撰で酷い態度が取れますからね。
普通がしていることが自分にはできないことのつらさ、マイノリティーの面が何かしらでもあると、あそこのシーンのセリフはほんとわかりみが深くて痛い。痛かったです。

凪沙は結局、男に擬態して力仕事をするわけですが(注射してて男のように働くのも無理なのに、よりにもよって何でそこに行き着くのかはやはり謎ですが)、それはともかく、初対面時でもどんなときでも女としてあることを譲らなかった彼女がそれを捨ててでも自分を選んだことに一果はそんなこと頼んでないとめずらしくはっきり拒絶こそすれ、発表会はあれだし、中学生なのよとはいえ、なんだかなあ。報われないなあ。悲しいなあ。

夜中に公園で二人でバレエの練習をしていた一瞬だけが本当に真っ当になんのしがらみもなく幸福なシーンだったなあと思いました。人生、幸せの割合なんてそんなものなのかもしれませんが。永遠に美しい夢を見ていたいよな。なんか、そんなこと思いました。

つらい。


追記雑多メモ:
一果のバイトも自分のためにやってるのに露骨にずっと嫌々で耐えられなかったのも、中学生の彼女が普通の家庭なら不必要なバイトを(しかも肉体に関することを)しないといけないことの受け入れられなさがあって、それがトランスジェンダーの凪沙たちが好き好んで身体を差し出して性風俗するわけではない拒絶ともリンクしている。自分の幸せにつながることのためなら何でもできていいわけではないし、普通はしなくてもいい選択であることならばなおさら耐えられない。彼女たちは表向きは綺麗な顔をしながら必死に足掻く白鳥にも擬態できない。

社会福祉があらゆる面で息をしていない。

一果は呪われた白鳥でしかない。
凪沙は白鳥にすらなれない。その凪沙がなりたかった白鳥に一果が成り代わるというふうにもいえるのがラストな気がする。

思い切って死ぬことはできない二人だけど、凪沙はなんか、作中で同じトランスジェンダーに言われたように一度落ちたら這い上がれないように衰弱していったのだよなあ。少なくとも一果と人生が交差しなかったらこういうことにはならなかったのではないか。でもそれはそれでお互いにどうなったかなのだけども。

あらゆる意味での格差社会。

トランスジェンダーを扱ってる点が特に話題になってたと思うしたしかに話の中心にはあるのだけれど、結構、舞台装置としてのライトモチーフになってたというとちょっと言い過ぎだけど、全体が結果薄味みたいな映画になってたので、あくまで取っ掛かりみたいな域というか。

自然体でいようとすれば店の中でも外でも見世物になる道しかなくて、そことバレエの舞台というのも重ねてるんだと思うのだけど(尚且つ見た目のために肉体に過度に無理をさせて成り立つという要素とか)、その辺はうまく言葉がまとめられず。面白い作品だったなあとは思います。そもそも自分を表現するために見世物化しなければならないというか。

一番最初のシーンが凪沙たちがバレエの白鳥の格好に楽屋で着替えてるところなのですが(これが何とも言えずふわふわで美しい感じがする)、それが上述してきた白鳥というモチーフになる、見た目は美しい理想のものにならうとするという結構彼女たちにふりかかる普通ではいられない呪いにみちた様子を軽やかに表現してて、残酷で綺麗で、いかんともいいがたい。

凪沙、あれだけお金に対して思うところもあるのに、簡単にくすねられる貯金箱をまだ親しくなっていない一果の前に放り出したまま出かけられるところとか、だいぶ相手に合わせて、相手が近づきやすいように距離を取ってくれているというか、たぶんいろいろ配慮してくれてたのだろうな。映画はディスコミュニケーションが基本だったので間合いが詰まっていくのもなんか勢いで片付いてたけれども。

一果母がネグレクトでも中学生まで一人で育ててたのは事実で、社会がDVを咎めたら親戚はそこでやっとその異常を受けて、その上で凪沙に押し付けただけなのだよなあ。親戚も社会も。
ともかく、ポッと出てちょっとうまくいけた凪沙が母親面するのはそりゃそれでいい気はしないわなとは思った。娘に依存しているのだから猶更。泥沼しかねえ。なんだかんだ結果的には高校まで出して卒業式にも顔を出してバレエも続けさせてっていうの、自分のためにやってるところが強いんだろうけど、まああまり責められないところはある。あるけど、やっぱり自分本位というか自分を守ることに必死すぎたがゆえにああいう話になるんだよなあ。
凪沙も仮にあのまま一果を連れ帰れたところできれいなだけでは話は終わらないだろうし。みんなで仲良くバッドエンドに向かわざるをえないお話だった。

一果は基本的には意思を表現しない子で、代わりに周囲はむちゃくちゃ主張を出してくる。一果はある意味それをぶつけられるサンドバックでもあったとも言えるのではないかともおもうけれど(そして限界がくると自傷癖に走り、不器用に悲鳴を上げる)、それで最後には自分に願望だとかをぶつけてくる人がいなくなったラスト、彼女は凪沙の理想の仮面をかぶって外国にいるみたいなところがあって、ほんとすごいいびつ。

本作、やや広範に雑多に扱いすぎてて薄味になってるとは繰り返してるけど、いちいち何かのシーンが別の何かのシーンの鏡みたいな関係になっているところがあるので、まあ、カットするのも難しいわなあとはやはり思う次第。でもなんか足りない味に結果的になってるのだよなあ。

本作、誰もかれもが愛に飢えていてそれを求めて押し付けてくるけどまともには成就しないよなあ、すべて。

欠けてるからこそ、自然体でそうとは認められないからこそむしろ過剰に女性性の演出をしてしまうというのも果てしのない行く先のないものだなあと改めて思ったりもした。自身は女だと思うのに、「女」としての外皮の仮面をかぶらなければいけない、肉体の呪いというか。性同一性があればそのままでどうであれまあおおよそは良いものが良しとされない。「らしさ」の呪いを自らさらに受けねばならないというか。好きでそういう固定観念のロールプレイみたいなのをする人もいるのかもしれないけれど、そもそも「らしさ」や「かくあるべき」に縛られている中でそういう振る舞いを取り入れるという。やりきれないよなあ。
せいか

せいか