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ミッドナイトスワンのメガネンのレビュー・感想・評価

ミッドナイトスワン(2020年製作の映画)
4.7
ズタズタだ。
何もかもが夥しく惨い傷で覆い尽くされている。
苦しみと痛みが実際に出血を伴ってスクリーンから溢れ出てくるような、烈しい感情の奔流に、ただ目が耳が釘付けられる。
深い深い夜の淵に横たわった、あまりにも現実的で、そして幾種類もの異なった痛みの数々。
不器用で、残酷で、切ないほど優しく、狂おしいほどの愛。
そしてそれを求め、もがき、苦しみ、しかしこぼれ落ちていってしまう物たち。

その中で、純然として、輝きを増していくスワンの、砕けそうなほど繊細な美しさ。
指の先からつま先まで、流れを持ってうねるマイムの力強さ。

この作品で最も美しく、感動的なシーンをあげるなら、絶対に凪沙と一果が深夜の公園で踊るシーンだ。
なんて美しく優しいシーンだろうか。

そしてこのシーンを境に二人を取り巻く世界は急速に崩壊していく。まるで牙を剥くように。

如何にこの映画の巧みな表現を挙げる
・チュチュを身に纏った瞬間、小さなアパートの一室の空気が変わるほどのマイムの美しさ。それを演じた服部樹咲の溢れ出る才能と、それを確実に捉えるシーンメイク。
・初めてのりんと一果の会話。子どもっぽい仕草でりんは一果に友好を示す。その仕草がどれほど一果を救っただろうか。そして、そのりんこそは子どもである事を許されない家庭で育っている。子ども大人の両親の下、所有物のように扱われ、飼い犬よりも気に掛けられていない彼女の存在は、余りにも軽く、そしてだからビルの上からその身を舞わせることに何の違和感もない。その表現の恐ろしいほどの冴え。
・そのりんのぎこちないキス。喫煙の後、胡座をかいたその姿勢、どことなく男性性を匂わせるような表現での。
・凪沙の家にある漫画がらんま2/1であるという事。
・「お母さん」と呼ばれたことへの凪沙の余りにも屈託なく純粋な喜びよう。それを下敷きに振り返った時の「私、女になったの。だから、いまならママにだってなれるのよ。」という台詞の持つ深く重い意味。
・水槽が暗喩するもの
・海

この映画を観ていてこの上なく悲しくなったシーン。
それは、二つあって、一つは凪沙がヘルメットに名前を書くシーン。自分のセクシャリティではない男性に立ち返り、文字通りのセクシャルハラスメントや無意識だからこそ残酷な差別面接を乗り越えてまで、一果の未来を支えるために「男装」をし、そうまでさせてしまう自分に責任を感じた一果に「頼んで無い」と拒絶されながら「こっちへいらっしゃい」と優しく嗜める凪沙は、疑いようもなく誰よりも母だった。その事を思うほど、震える指で何かを諦めるように「健二」と書くその仕草は、余りにも切ない。
もう一つは、卒業して、上京し、訪ねた先で目の当たりにする凪沙の変わり果てた姿と、その汚物に塗れた患部を慈しむように、そして心底の悲しみを持って泣き縋る一果の姿。何よりも悲しいのは、あれほど綺麗好きだった凪沙が、汚穢に塗れて動くことすらままならない身体になり、しかも親族や友人では無くボランティアの介助を頼って命を紡いでいたこと。もう、その目には可愛がっていた金魚達がとっくにいなくなっていることさえ写っていない。完全な崩壊。徹底的な、どん底。

海。もう、凪沙を傷つけるものは何も無い。
身体にも心にも精神にも魂にも、考えうる限りのありとあらゆる傷をその身に負ったから。
ズタズタになったから。

心が苦しくなってくる。

それでもなお、この映画は尊いもので満ち溢れている。

一果。
羽ばたく翼に歯形を刻むことしかできなかった彼女を、あたため、包み、許し、家族としての愛を注いだのは、誰よりも凪沙だったのだから。

愛とは、与えるものでも、与えられるものでも無い。学び伝えるものなのだ。
そこには性別や年齢や社会的地位やお金や血縁など一切関係がない。
ズタズタになりまで愛してくれた人が居ることを一果は知っている。

だから、「見てて」と、呟く。