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ミッドナイトスワンのhaya31のネタバレレビュー・内容・結末

ミッドナイトスワン(2020年製作の映画)
1.0

このレビューはネタバレを含みます

(以前Yahoo映画のレビューで書いたものですが、字数制限があったため少し書き足してこちらにも投稿させていただきます)

草彅さんの圧巻の演技は素晴らしく、本当に凪沙という人物が生きていた。服部さん上野さんの演技もみずみずしく、その存在感は奇跡のようだった。役者さん達だけで言ったら大傑作。
個人的に言うと世界一大好きな草彅さんの、女性としての姿が見られたのはとても嬉しく幸せなことだった。

だが一方脚本・演出は悲惨さを殊更に見せ付けるという意味で非常に露悪的だし整合性もとれてないし登場人物の心情が雑にストーリーに引っ張られてるし、最悪と感じた…。さすが「全裸監督」の監督だ、女性の人権や人格への配慮はなく、ただ「母性」「自己犠牲」という神話を押し付けたかっただけなのでは、と思った。



まず親戚の少女を預かることになった凪沙が親や親戚に自分が「男性」であると偽っていたのでびっくりした。東京で一人暮らしする独身中年男性に、初対面の中学生の少女を預けよう、それも一人で東京に向かわせよう、という話になるだろうか?それもその話を持ちかけたのは凪沙を男だと思っていて、「息子」の東京での暮らしぶりや現在の髪型すら知らない凪沙の母である…。

また、凪沙が一果への愛?を募らせていく過程が急すぎて全くついていけなかった。一果に惚れ込んだきっかけは一果のバレエを見てからで、バレエにかかるお金の工面のため売春しようとしたり男装して就職しようとしたのは難しいながらもギリギリ分かるのだが、ただ…、そこからの性適合手術、そして「私、女になったからあなたのお母さんになれるのよ」は全く理解できない。「母」になる理由とは?
凪沙と一果が同居していたのはせいぜい1,2ヶ月だろうし、いくら凪沙と孤独を分け合い心の絆が育っていたとしても一果には実の母への切なる想いがあるし、実の母も改心して一果を東京まで迎えに来て、実際に一果は母と広島に戻っていってるというのに。
一果の広島での暮らしぶりは、バレエをあきらめて自堕落に暮らしてはいるものの、母から虐待を受けているわけでも再びネグレクトされているわけでもなさそうだった。一果をなんとしてでも実の母から自分のもとに連れ戻さなければいけない理由は?
親戚のおばさんなりに、見守り励まし必要があればバレエ資金などを送ったりして援助することが本当の「愛」だったのでは…?

そしてそのシーンで凪沙の服がはだけ、乳房が丸出しになるところはひどい。女性が人前で平然と乳房をさらす、ブラジャーもつけていない、なんてありえない…。
男性である監督はこれぞ母性の発露だとでも言いたいのだろうか。女性への配慮のなさ、想像力やリアリティーのなさ、「母性」とは子のためならここまでなりふり構わないものなのだという気色悪い思想が透けて見えるようで吐き気がした。


また、私はこの映画の舞台の一つとなった東広島市出身なのだが、東広島はのどかで緑豊かな学園都市で、髪を染めた中学生のヤンキーが昼間からコンビニ前でたむろするなんてまずありえない。なぜ都会の広島市などではなくわざわざ東広島にしたのだろう。
そもそもなぜ凪沙を広島出身にしたんだろう。私は世界一大好きな草彅さんが、私と同じく東京で一人暮らしをしている広島出身の女性の役をしてくれるというのがものすごく嬉しくて楽しみでたまらなかった。けど予告と映画を観て、その広島弁のあまりのひどさに、けっこうショックを受けた…。
いや、草彅さんの演技は最高で、100点満点中の200点って言いたいくらいなのだ。草彅さんの演技のせいでは決してない。そもそもの台詞からしてエセ広島弁だったし(たとえば「いかんのじゃ」は本当なら「いけんのよ」)、エンドロールの時には放心状態でしっかり確認できなかったが、たぶん広島弁指導の人もついてなかったのだ。
なんで広島出身で広島弁しゃべるゆう設定なのに、方言指導がついとらんのん…。方言指導つけんのなら、なんでわざわざ広島出身ゆう設定にしたん…。


そして、凪沙が最後にひどい状態で見つかるシーン…。あれは今思い出しても吐き気がする…。この映画で一番ひどく露悪的なシーンだった。私はあれが脳裏に焼きついて眠れなくなり、数日間睡眠障害ぎみだったほどだ。
大人用オムツをはき、股間を血だらけ・汚物だらけにして呻く凪沙。かなり意図的にショッキングに撮られているようだったけど、あの画はこの映画にそんなに必要でしたか?草彅さんは大人用パンツのCMキャラクターになってますが、大人用オムツってこんなに汚物が漏れ出るものなのですか?

また、凪沙がこんな体になってしまったのはおそらくタイでの手術の術後が悪かったからなんだろうけど、タイの医療ってこんなにお粗末なんですか?今現在よくあることなんですか?私はタイは性適合手術の先進国とイメージしてたけど…。まさか、昔はどうあれ今ではほとんどないことを、「お金がないがどうしても女性の体となり母となりたいため、”後進国”のタイで命をかけ手術を受けた」という悲惨さ一途さの表現、またはストーリー展開のために都合よく、使ってるんじゃないですよね…?もしそうならタイやタイ医療界へのひどい侮辱だ。



何にせよ、どんな悲惨さも理由があれば受け入れられたかもしれないが、凪沙と一果が寄り添い合う姿が時間的にもエピソード的にも中途半端にしか描かれておらず、また一果が「母」としての凪沙を切望している姿もほぼ描かれていないために凪沙の行動が無謀かつ突飛に見え、心情的にも論理的にもついていけず、ただつらいばかりだった。

一方的に暴走しているようにみえる思いから無理やり危険な手術に踏み切り、体も精神(認知力)もボロボロになって、最後に美しく踊る一果の幻影(じっさいには失われてきた自分の少女としての姿?)を見ながら死んでいった凪沙の死は、私には「せつなく美しい愛ゆえの死(考えようによっては幸せ)」ではなく、どうしても哀れな無駄死ににしか思えず、ひたすら悲しくて空しくて悔しくて苦しくてたまらなかった…。
なぜ彼女がストーリー上、こんな死に方をしなければいけなかったのかと思うと怒りすら感じるほどだ。
(そもそも凪沙にとっての一果が、命をかけてでもひたすらに守り愛すべきわが子のような存在なのか、それとも自分の理想を投影・仮託する対象、自分のなりたかった”少女”としての人生を自分の代わりに歩んでいってくれる存在として見ているのかも、ちょいちょいブレてて分かりにくい。一果にバレエの才能がなかったとしたら凪沙は果たして一果に興味を持ち愛しただろうか、とすら考えてしまう)

個人的に、凪沙にはただ「本来の(自認する)体になるため」に、ただ自分らしく生きるために、なりたかった”少女”になるために、適合手術を受けてもらいたかった、と思う。

この作品だけでなく、これまでも女性(とくに母親)は「誰かのために生きる」「誰かの人生を応援し、誰かの成功を楽しみにし、時に陰ながら自分を犠牲にする」という生き様が当たり前のように、またはまるで美しいことのように謳われ描かれることが多かったと思う。
だが私たちは女性だからといってべつに他者の人生の犠牲になりたいわけでも、他者の人生に便乗して生きたいわけでもない。それぞれが個人として意志や夢を持っているのだ。

今回も男性作家が無邪気に女性に「母性」「自己犠牲」を押し付け賛美、「これぞ美しい無償の愛」と自己満足してることにものすごい嫌悪感を感じた。そこに女性のリアルはない。



ただ、草彅さんは最高だった。服部さん上野さんも最高だった。
この作品のストーリーは個人的にはどうしてもおすすめできないのだが、彼らの演技はぜひ見てほしいと思っている。

役者さんたちの今回の挑戦自体は素晴らしく、これからもいろんな作品に挑んでいってほしい、そして願わくばそれが「いい作品」でありますように…、と思っている。




【10/27追記】
先行上映で観て以来、ずっとモヤモヤして自分なりにこの映画のイヤさの理由を考えてきた。
・特定の苦しみを持っている人を使って感動ポルノに仕立て上げていること
・架空のキャラとはいえ、トランスジェンダーの女性の人格や身体へのあまりの配慮のなさ
・広島弁やわが地元・東広島のイメージを捏造し、粗暴で無知で閉鎖的なイメージに仕立て上げられたこと
・昭和かというような女性観・母親観、ステレオタイプなキャラ造形
・ツイートなども含めて感じた、内田監督の映画監督としての倫理観や人間性への疑問。

それらの理由はしっくりはきたけど、まだモヤモヤは収まらなかった。
でもいろんな方のレビューを拝見し、そもそも私が凪沙という人物のもつ問題点をなぜか正面から見ることができなかった、変な話「嫌だな」と思うことさえできてなかったのだ、ということにやっと気づけてちょっとパズルのピースがはまった感があった。
この映画に感じているモヤモヤの原因の一つは、観客(少なくとも私は)が乱暴に、だが知らぬ間に、「口を塞がれ、目を塞がれてしまう」というところにあったのかもしれない。
目くらましや正当化のため、作り手の都合のため、極大化され歪まされて描かれる特定の人々の「悲惨さ」というものに問題はないだろうか。
今さらの追記だし長くなるが、整理のためにここに記しておきます。



まず凪沙や同僚の瑞貴は「なんで私だけ!」と繰り返す。
何人かの方たちが指摘されてるように、凪沙を追いかける客を流血するまでボコっておいて瑞貴が言う「なんで私たちだけ!」はすごい。
瑞貴が性風俗で働いているのはトランス女性だからではなく、そもそもヒモに貢いでいるからだ。
凪沙は男にレイプされそうになったのではなく、お金がほしくて自ら売春しようとしていたのだ。
このシーン、普通なら(乱暴に追いかける客はたしかに悪いが、ボコボコにして嘆く展開は)「おかしいよ」と思うところなのに、ドラマティックな演出に「ああかわいそうだ」と私はなんの批判的思考もなく受け入れながら観てしまった…。

また、凪沙の一果への態度について。
凪沙は「警察沙汰になるほどにネグレクトされている」と聞いた子供を養育費目当てに預かっておきながら、会うなりすぐに「私が女だってことを親にばらせばあんたを殺すから」と言い捨てる。(いや、じゃあなぜ預かった?)
凪沙さんはひねくれてただけなのだ、本当は優しい人なのだ、…などと思うことは私には無理です。
凪沙はたしかに瑞貴などには優しい。これは同じ苦しみを抱えているトランス女性相手だからだろう。
ではなぜ虐待されているあきらかに”かわいそうな子供”相手にあそこまでひどい態度をとれるのか。
これはもしかしたら一果がシスジェンダーの女性だからではないだろうか。
「普通に」生きることができるシス女性へのひがみや憎悪、そしてトランス女性である自分達は「かわいそうだから」少々ひどい態度をとっても許されるべきだ、という自己憐憫や自己正当化の思いがあってこそのあの態度なのでは。
まさに「なんで私だけ!」という思いにとらわれ、他者、それもあきらかに弱者である被虐待児の苦しみ悲しみに目を向けることができないのだ。

一方、一果にバレエの才能があるということがわかり、また一果が自分になついてくれるようになったら、凪沙はとたんに態度を変えて優しくなる。
それ自体はまあいいことだとは思うが…、実母から一果を奪おうと乗り込んでいくのはいったいなんだ、これが本当に愛なのだろうか??
大岡裁きの真逆を行くこの行動に、しかしなぜか観客の多くが「凪沙さんは本当の母親だ、美しき愛の人だ、一果への愛ゆえの覚悟の行動がかっこいい」と絶賛レビューをしている。不思議だ。
シングルマザーとして、不十分ながらも孤独に必死に一果を育ててきた実母への同情はないどころか、凪沙からも多くの観客からも実母はまるで敵のように目されている。
凪沙がもしも本当に賞賛されているような「孤独を知る愛の人」ならば、従姉妹である一果の実母に友好的な話し合いを申し出て、「一果にバレエを習わせるためにも、もうしばらく私に東京で預からせてもらえないか」と提案できたのではないだろうか。
そもそも適合手術によって凪沙の経済面・健康面はどうなったのだ、実母から奪ったとして子供を育てられるのか。
子供はペットではないし、ペットですら責任もって最後まで面倒みられそうにない人は飼う資格がないというのに。

…ここでの凪沙の行動に対する観客の無批判な絶賛評に、この映画で描かれるトランス女性のことさらな悲惨さや嘆きが作用していないだろうか。
美しく飾り立てられた悲惨さの演出と「私ばかり!」との嘆きで、観客の目や口は塞がれていないだろうか。
(また、凪沙の自己正当化や強者(マジョリティ)への敵意が、無批判なまま観客にもやすやすと内在化されていってはいないか。)

「この映画のおかげでトランスジェンダーの苦しみを知ることができてよかった、これから人にもっと優しくなれそう」という意見をいくつも見てきた。
それはいいことなのかもしれない。が、この映画はトランス女性を結局”腫れ物”にしてはいないだろうか。
劇中のトランス女性に何度も「なんで私ばっかり!!」と嘆かせ、じっさい悲惨な目に逢わせ、そこから出ようともがかせ、最後はむごたらしい死を与える。
「これこそが(全般的に)トランス女性のリアルだ、かれらは痛々しくかわいそうな存在なんだから優しくしてあげよう」、そういう思いを観客に与えていないか。
これじゃ理解や共感や共存よりも、むしろ「普通の人」と「かわいそうなトランスジェンダー」という分離・分断を生んでいるのでは。
「理解した気」を作り出しているだけなのでは。
(じっさい、もし現実に他人の子供を奪おうとする女性がいたとして、その人の背景を考え同情しようとしたり「美しい愛!母性!」なんて思ったりするかな…。現実との乖離、現実的な感情や感覚との乖離がありすぎる。ならそれは「理解」ではなく「理解した気」、映画の空気に一時的に酔っているだけなのでは?)


…また、凪沙が就職しようとして面接を受けるシーンについて。
多くのレビューで面接官の中年男性の不見識、偏見に対し「こういう人いる、イヤだ、こんな人間にはならないようにしよう」との感想を見かけた。(それ自体はいいことだとは思います)
じっさい私も映画を観たときは単純にそういう感想をもち、単純にその面接官に憤慨した。
しかし考えてみると、性別うんぬん以前に、仕事への意欲も面接官に気に入られようという意志さえも見せない陰気な中年女性というのもどうなのだろう。
エクセルは使えるのか、電話は取れるのか、同僚と良好な関係を築けるのか、それらすら疑問なレベルだ。
この映画の作り手はわざわざ凪沙を「”普通の女性”が働いている(おそらく一般事務)職」の面接に向かわせ、面接官に偏見にみちたことを言わせ、「ほら!かわいそうな凪沙さんはトランス女性だから”普通の女性”の職につけないんです!こんな偏見にみちた人々によってつねに嫌な思いをさせられ、排除されるんです!」と、これ見よがしに語っているようにも思える。
たしかに社会にはこういう排他的だったり差別的だったりする場はいやになるほどたくさんあり、アップデートされ改善されていくべきだが、それはそれとして凪沙には仕事への意欲や適性、他者への友好的態度がなさすぎるのでは(接客業をしているので、愛想よくしゃべることはできるはずなのに)。これを「トランスジェンダーだから」の問題にしてしまうのはいくらなんでも乱暴なのでは。
面接官の言葉は人としては失礼千万で許しがたいものだが、しかしあそこは彼のテリトリーであり、彼は彼の仕事をしていただけなのだ。

それに加えて、凪沙が今度は男装して肉体労働系の仕事に就く展開。
観た当時はそこでのセクハラシーンに私もはらわたが煮えくり返ったのだが、しかし今冷静に考えるとあれだって凪沙に問題があったのでは?と思える。
男ばかりの力仕事の職場に、なぜ非力な中年女性が「男」と偽り就職してしまった?
たしかに「女性でありながら男性の体に生まれてしまった不遇、性別を偽って生きねばならぬつらさ、社会の差別や非情さ、一果のためにつらい仕事をする”母”としての覚悟や一途さ」もろもろを雄弁に語ることはできているかもしれないけど、同僚達の立場に立って考えたらこれも話が変わってくるのでは。
女性である凪沙は男同士のノリに合わせられない、そもそも体力的に仕事にならない。なぜわざわざこんな男の職場に来た。やはり場違いなのだ。
かつて美輪明宏さんが「人に盗られるようなところに財布を置いておいて、それを『盗られた!』と嘆くような人がいるが、これはそこに財布を置いたその人が悪いのだ」と言っているのを聞いたことがあり、なるほどと思ったものだ。
この映画が凪沙にさせる行動は、それに近いものがある。差別はよくない、が、この映画ではその差別をわざわざ引き出し、その差別した人を観客に見せしめ断罪させる。
「女性社会からも男性社会からも締め出されるかわいそうな凪沙さん」/「差別・偏見といじめ体質に満ちた無知で残酷な社会」という対立をわざと作り出している。
これは一見、社会にはびこる無知や偏見や差別をあぶり出し啓蒙しているように見えるし実際にその効果だってあるのだろうが、だが結局はやはり分離・分断を作り出していることにもなるし、何よりトランスジェンダーの人々(の世間的イメージ)を職業的にせまい枠組みに押し込んでしまうだけなのではないだろうか。

この映画に出てくるトランス女性たちはすべて水商売・風俗業に従事しており、さらにこの映画は凪沙にわざと”女らしい仕事””男らしい仕事”両方に挑ませて失敗や苦労をさせることで「トランス女性が”普通の仕事”に就くのは困難だ、就職するにも無理に心や体の性を偽って生きるしかないのだ、結局は真夜中の白鳥として夜の街に生きるしかないのだ」というイメージを強化してしまっているように思える。
だがこれは大事なことだが、東京なら仕事は探せば他にもいろいろあるのだ。じっさいの社会はひどく残酷で排他的な部分がありながらもとても優しく融和的な部分もあり、もっとまだらなものだと思う。(そもそもこの映画、あくまで残酷寓話として描きたいならせめて時代設定をぼんやりと平成初期くらいにしてぼやかしていたらよかったのに…リアルにしたいのか寓話的にしたいのか、どっちつかずすぎに感じる。あと凪沙の故郷もあんないい加減で失礼な描き方をするなら、広島、それも東広島とわざわざ名指しで設定しなければよかったのに…)
差別や偏見がまったくない職場というものはないかもしれないが、女性らしい仕事であれ、ジェンダーレスな仕事であれ、少しでも自分に合ってる仕事・できそうな仕事を選ぶことはできると思うし、できうる限りそうするべきだったのでは。もちろんトランスジェンダーの方達が選べる仕事は少ないのだろうけど、それでもあきらかに適性のない仕事や職場を選んでわざわざつらい思いをすることはないとやはり思う。
(ショーパブの仕事への凪沙の想いがよく分からなかったのだが、バイトや派遣で昼間に副業することもできるし、もしダンスが好きなら続けたらよかったのに…と思った。新宿に住めるくらいならお給料もよかったのでは?)

ちなみに内田監督は「R指定がついていないので子供にも観てもらいたい」としきりに言っていたが、そこにトランスジェンダーの子供はちゃんと含まれているのだろうか。
トランスジェンダーの子がこの映画を観て、将来の職業や性適合手術などの選択肢について希望を失わないか、いやな思いをしないか、と考えこまざるを得ない。
(「子供に観てもらいたい」というからには教育的意義などを考えての発言なのだろうが、逆にトラウマや嫌悪感を植えつけないかも心配。成人の私が、あのシーンで何日も睡眠障害になったほどなので)


…かつて文筆家の能町みね子さんが「オカマだけどOLやってます」というエッセイ本でデビューした時、自分の中で(それを読んでもいないのにタイトルを聞いただけで)かなり大きな意識のアップデートが起きた。
恥ずかしながら私は当時トランス女性について、テレビで見る芸能人や「そういうお店」で働く女性たちのイメージしかもっていなかったのだが、この本のタイトルはトランス女性が普通に女性として社会にいるだろうこと、今後そういう人に職場などで会うこともあるだろうことを私の意識に植え付けてくれ、それによってちょっとした心構えも生まれた。

「ミッドナイトスワン」がもしもトランス女性の苦しみを描き世に知らしめることで偏見や差別をなくそうという思いで作られたものならば、悲惨さの中にもなにかそういったアップデートを起こすもの、なにかしらの新しい価値観や希望、彼女らがもっとふつうに共存する世界観を少しでも描くべきだった、と個人的には思う。
だが、この映画では逆にトランス女性は古臭い一つの枠組みの中に押し込められ、出ようとすると叩いて見せられ、その檻の中でのみ同情・賛美され、せめてもの「母性の芽生え」だけを希望やささやかな自己実現として与えられ、そして残酷に殺されてしまう。これじゃ令和から昭和、いやもっと暗黒の時代への後戻りだ。
さらにはそれを「美しき愛と感動のストーリー」として観客に届け、「泣けた!心震えた!」と消費させてしまう。
遠いところにいるように感じられていた他者の、壮絶なまでの苦しみや生きづらさを知ることで、共感や思いやりの心や想像力が生まれるのはいいことだろうとは思う。
だけどじっさいの他者というものはそんなに都合よく何かの枠組みの中にはまり込んでいてくれるものではなく、ましてや私たちの感動のために生き死にしてくれているわけでもないのだ。

共感や思いやりは必要だ。他者の苦悩を知ること、想像力を持つことは大事だ。それを否定したいわけでは全然ないし、この映画の功績だってあるとは思う。
だけど「かわいそうだから」という分厚い目隠しをされ、「かわいそうな人」というくっきりした線引きをした上での共感、過剰な演出による一時的な共感やカタルシスにはあまり意味はないし、むしろけっこう危険なものでもあるのではと思ってしまう。

「弱者」であることを盾に美化・正当化されることや、マイノリティではない人々や社会をことさらに「悪」として描くこと、恣意的な分離・分断が、この映画にはあまりにも多かったと感じる。
それはゆがみや圧力になる。現に私は凪沙という人物にモヤモヤしつつも彼女に対する客観的・批判的思考、自分本来の感覚や感情を奪われていたのだ。
知らぬ間に口を塞がれ目を塞がれていたのだ、凪沙はあきらかに私にとって「腫れ物」になっていたのだ、と今は感じている。


とにかく、彼女はやっぱりどう考えても死ぬべきじゃなかったと思う。
エンドロール後のあの映像は、野暮や蛇足どころではない醜悪なものだった。
ひとの無残な死を、愛や希望のようなもので乱暴に飾り立てるべきじゃなかった。ひとの死に、何を添えても死は死なのに。
悲惨さや死を、何かの美化・正当化に使うべきじゃなかった。気持ちいい涙を流させるために使うべきじゃなかった。
とてもずるく、いやらしい描き方の映画だったと個人的にはやっぱり思う。


(ただし私の場合は個人的に草彅さんを好きすぎるあまりにいろいろ見え方がゆがんでいる部分があると思います。人生最悪の映画体験を、人生最愛の推しの主演作でするとは思ってなかった…。観てからずっと考え続けているし、これはこれですごい体験なんだと思います)
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