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ぶあいそうな手紙のLCのレビュー・感想・評価

ぶあいそうな手紙(2019年製作の映画)
4.3
非常に好き。

原題は「 Aos Olhos de Ernesto 」、ストレートに英訳すると In The Eyes of Ernesto とかって感じになるのかな。うまく日本語に訳すのは難しいけれど、視力が衰えた「エルネストの視界を通して」描かれる日々にお邪魔することができる作品。

主人公は、視力がだいぶ失われてしまった高齢男性なのだけれど、妻に先立たれて1人で暮らしている。時々ハウスキーパーさん(女性)が来てくれるみたい。お隣さんは同年代の仲良しさん。
そんな日常の中で、新しい出会いがある。それも、若い世代の人と。
その人とお互いに少しずつ知り合っていくのだけれど、ハウスキーパーさんはとても心配する。
主人公は、ある時そんな彼女を解雇しちゃうのだけど、私にはとても彼の気持ちが理解できる。
つまりは彼女の、「あなたはもう、判断能力もなければ今の社会情勢にもついてこれない、耄碌した人だ」というメッセージが不快なのだよね。ハウスキーパーさんの考え方(老人は騙されやすい、とか)も理解できるし、正論かもしれないけれど、人として気持ちを尊重する姿勢はない。丁寧な言葉で話していても、上から目線。あなた知らないんでしょう、そんなこともわからないんでしょう。子ども扱いと同じなのだよね。お風呂中に平気で入ってくるところからも、主人公を独立した個人とする認識が欠けていることがわかる。
「あの若い子に殺されたら私が確認しに来ますよ」的な捨て台詞を言うけれど、主人公はたとえ本当に殺されたとしても、彼女の言う通りだったと謝罪することはないだろう。だって、その人を信じることは、自分で判断した自分の選択なのだから。
それにまあ、幾ら心配だからって、本人の耳目に届くところであからさまに邪険にするのも、あまり品性がよろしくない。スペイン語の手紙を読むことができない場面から、教養の低さも推して知ることができる。教養の低い人は、偏見を持ちやすかったり(若人の見た目で人となりを判断していたところとか)視野が狭かったり(悪いことしに来たに違いない他の可能性などない、とか)する。
ちなみに、教養とは学力のことではないし、通常ポルトガル語のネイティブさんは、スペイン語の理解にさしたる苦労をしない。

主人公が若人に対して行ったちょっとした仕掛けは、とてもあたたかなものだった。
彼は、その人の見た目に関しては視力の関係で詳細に判別がつかないのかもしれないけれど、相手の人柄や素質を見抜く目はあったんだよね。
その上で、事情があるのだろうと若人を慮って、まずは自信を与えようと動いたわけで、彼のような人をこそ、思慮深い品性のある人と表現できると感じる。
政治に対する文句は理解できる(老後を少ない年金で過ごさせるのは、人として最低限度の文化的暮らしに直結する)ものだけど、同時に彼は若人にお金をかける場面でケチらない。くすねた分返せ、なんて言わない。何度も読み返すお気に入りの本も譲る。
それは、若人、ひいては、社会が向かう未来への投資とも言える。
だからこそ、教養があっても孤独で、人間関係にも恵まれなくて、低賃金で働いたり少しばかりのお金をくすねたり、でもその日眠るところも定まってない、そういう状況に居るたった1人の若者に丁寧に接してくれる人が、どれだけ「いないか」を感じてしまう。
つまり、社会そのものこそが老いてしまっているのだ。未来へ続く道、それを作り整備する者を支える体力が衰えている。
主人公と交流する若人の姿には、社会という生き物の衰えと、その生き物が息を吹き返す希望を見出すことができる。

結局、ひとりひとりの置かれた状況や考え方、感じ方、発言に、その時の社会がどんなものであるのかを垣間見ることができてしまうんだよね。他者を慮る人が少ないということは、自分に集中せねば生きていけない社会ということだ。社会を生き物と考えると、間違いなく健康な状態ではないことがわかる。癌ならステージいくつだろうか。チェスの場面でもお互いの健康を話題にしていたわけだが。
そして本作は、トランスに関する場面もカメラに映している。そこからも、今の社会の特徴をひとつひとつ掬い取っていることが窺える。

主人公は、自分の死期近い日々の充実を探した。
見つかったのは、若人のおかげ。
納得できる道を見つけた主人公と、立て直す機会を得た若人。
個人の物語なのだけれど、体力があり、故に余裕のある社会の不在を思い知らせる作品でもあった。
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