蝸牛(2019)
舞台は中学校
主人公は日比野千帆
彼女は幼馴染で坊主頭の沼田信平と付き合っている
共に中3
幼馴染の信平自身はだんだんと自分の身体が「男」であることに違和感を覚え始めている
俗に言う "性別違和"
それを間近で知ってしまっている千帆
彼と付き合っていながらも
「いつか嫌われてしまうのではないか」
と不安感を抱えつつ
「オーラルセックスに及んでいる」
というかむしろ迫害的な気持ちになっていって
信平の「男性器」について異様な執着を見せる
中盤 クラスの女子達が信平にメイクをして
女装させるシーンが描かれる
坊主頭とはいえ比較的キレイな顔をしている信平
クラスの女子達は安易に彼をYouTuberにさせ広告費を稼ごうと合作している
千帆はその様子を悶々と感じていて
トイレの個室でぶつぶつ呪文を唱える
>沼田信平は日比野千帆の彼氏です
黒板に殴り書きするくらいその想いは強い
信平は自分の性への意識変容から
スカートを履いて千帆の前に現れる
変わらずに信平と過ごしたい千帆は
男性器への執着が沸点に差し掛かったとき
「噛みつく」
いや「食いちぎる」というべきか、、
口の周りには血液が付着している
(実際の所 アレ がどうなったかは不詳)
信平を「男性」として捉えているはずなのに
彼を「身体的に女性へと導く」という
去勢コンプレックスを体現した映画と思える
千帆の下半身にはついてないものに躍起になり
それが既に「去勢されている」という空想をベースに男性器を取り返そうとする
去勢された事そのものを否認しようとしたり
男根羨望を思わせるシーンが形作られている
(※ちなみに私が鑑賞して感じた勝手な解釈なのでフェミニズムを虐げるような意味合いは全くないので悪しからず…)
こういう性的発達期を経て男性・女性への
成熟を迎えること自体 人によっては全く意味が分からないとは思うが、、
過去の偉人が唱えた功績的概念はあながち間違ってないように思える
こういう性役割を考える時に発達や段階がなければ
そもそも自分が
「男性なのか はたまた 女性なのか」
という同一性を獲得できない
自分がいつ・どうやって・どのタイミング男性・女性になったかは通常は意識できないし
それを獲得できなければ 違和を感じ続ける
女性は男性に比べ思春期に明らかな変化を迎えるから男性よりは分かりやすいかもしれないけれど
ちなみに
この映画の着想そのものは「蝸牛の交尾」だそう
蝸牛が交尾の際に相手に突き刺す鋭い矢
通称「ラブダート(Love dart)」
矢を突き刺すことでお互いに傷つけ合いながら子孫を残すということに感銘を受けた
ようであるが、、
そこに「色んな社会の観念や人の目を気にせず息苦しさをも突破する」
という思想を混ぜて出来上がった映画だそう
男性器への執着を描いた映画は
"歯まん"/2015にも描かれている
(こっちは女性器が男性器を食いちぎるって
内容だけど)
性のアイデンティティが揺らぐ中で
「男らしさ・女らしさ」
その定義をどちらかといえば
「男性器(ファルス)」
中心に見出してるように思う
自分にないものを食いちぎった結果 最終的に
工場のような物が遠くに見えていて
歩いていって見えなくなる2人の姿
観衆はそれをただ眺めながらも
それがハッピーエンドなのかさえも分からない
噛んだ後なのに何故か2人が楽しそうなので
その辺の感情の動きがフィクション感満載だけど
でも若い向こう見ずな衝動があって駆け抜ける
その様子は非常に爽快に溢れていた
青春(性春)のワンシーンにこじらせた感を
付け加えた様子を目撃させてもらいました
※個人的感想の中に作品を否定しているわけではないこと付け加えておきます!