KnightsofOdessa

バビロンのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

バビロン(2021年製作の映画)
2.0
[It's the Pictures that got Small] 40点

バビロン、とは『イントレランス』(1916)の大コケによって解体費用が捻出できず、古代バビロニアの巨大なセットが廃墟として残り、それがハリウッド名物となったことから来ている。夢の国ハリウッドはバビロニアにも行ける…と当時の人が思ったかは知らんが、ハリウッドは人生をベットする博打の街として、狂乱の20年代における享楽と堕落を代表する街として第二のゴールドラッシュのような状態になっていく。興味深いのは当時も作られていたハリウッド内幕ものの中で、ハリウッド表象に変化が見られることだ。1923年の『売られ行く魂』では"堕落してるのは個人で、産業そのものへの批判にすり替えんなよ"というスタンスで、主人公は女優になることを両親に反対されていたが、1928年の『活動役者』になると、女優志望は両親公認で(なんならオーディションに父親がついてくる)、大成してスターになることを夢見ている。20年代も進んでいくにつれて映画の立場も盤石になっていったということだろう。ちなみに、『活動役者』の主演はマリオン・デイヴィス、後に新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの愛人になる女優である。ハーストは彼女を文芸女優にしたがっていたが、その才能はコメディエンヌの方に傾いていた。『活動役者』はその逆で、シェイクスピア女優を夢見ていた少女が、(それに一歩劣ると考えていた)コメディエンヌの才能を認めて、その道を進むという物語である。ハーストは恐らく『活動役者』を観た上で、デイヴィスのコメディエンヌっぷりを理解せず、真逆のことをしているのだ。アホだ。

映画は狂乱を絵に描いたような汚物と薬物とセックス満載のパーティで幕を開ける。だが狂気も空虚さも感じさせず、各々が各自の役目を画面端で全うしているという印象を受ける。それが当時の雰囲気なのか(つまりパーティの"主役"に気に入られようとするとう意味で)、チャゼルの演出力が死んでるのかはよく分からない。その後は、ジョン・ギルバートを模したコンラッド篇、スターダムを駆け上るネリー篇を軸にマイノリティたち(アンナ・メイ・ウォンを模したフェイ・ズー、黒人トランペット奏者シドニー、そしてメキシコ系移民の主人公マニー)の物語を絡めていく。どれもありきたりで要領を得ず、魅せ方もワンパターンで、特にフェイのマジカル・アジアン感はキツい。"映画で新しいことをしよう!"とコンラッドは言うが、これを見てサイレント映画を観ようと思わせるような場面は1秒もなく、かといってサイレント映画を超えるような瞬間も一度も訪れず、マジでなんのためにこの時代のハリウッドを選んだのか全く理解できない。後半なんか、『アンダー・ザ・シルバーレイク』みたいな裏世界とか手持ちカメラまで出てきて、もう意味が分からなくなる。サイレント映画全部潰して俺が塗り替えるってくらいの気概で来い。まぁ剽窃&フリーライドで"映画愛"を語った『アーティスト』とかいうゴミよりはまだマシ。

極めつけはラスト。安易に『雨に唄えば』を持ってくるのも終わってるが(下位互換と認めるようなもの)、『ニュー・シネマ・パラダイス』のラストを盛大にパクって、しかも2022年までの映画を色々並べるという暴挙。この映画史フリーライドによるお手軽エモエモ演出によって、我々までこの映画の中に取り込もうとしてくる。こっち来んな、と言ってやりたい。こちとらお前のウンコとゲロと精液を3時間も全身に浴びてきてんだよ。

追記
ネリーの映画を撮ってる女性監督ルース・アドラー(モデルはドロシー・アーズナー)を演じているのは、チャゼルの奥さんオリヴィア・ハミルトンらしい。露悪印象を与えるためだけに冒頭に配置された、ロスコー・アーバックルとヴァージニア・ラッペを思い起こさせる事件は、現在では冤罪と言われており、本当に害悪でしかない。コンラッドを殺そうとする何番目かの妻がハンガリー人で、しかもルイーズ・ブルックスみたいなボブカットで、何重にも最悪だった。ネリーのアホな父親とか含めて、端役の物語を適当に扱いすぎているのは気になるところ。
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