幽斎

バビロンの幽斎のレビュー・感想・評価

バビロン(2021年製作の映画)
3.8
「セッション」「ラ・ラ・ランド」Damien Chazelle監督が、サイレント映画からトーキーに移行する変革期のハリウッドを舞台に、映画の黄金時代を絢爛豪華にシミュレートしたEqual群像劇。Tジョイ京都で鑑賞。

皆さんは「昔の映画」何が思い浮かびます?。私はアラサーですが「ターミネーター2」「トータル・リコール」「氷の微笑」(笑)、愛する「007」で言えば「007/美しき獲物たち」、正に午前十時の映画祭で上映される作品が私のクラッシック。昔の映画で世代が分るのも映画の面白さですが、サイレントからトーキーに移行と言われても全くピンと来ない。サイレント時代の俳優は声も判らず、台詞も喋らず、動きを見せる事で成立。ある意味紙芝居的な見せ方。

ソレに「音楽と声」が加わる事で映画も大転換を迎える。紙芝居が漫画に駆逐され今度はテレビに子供達を奪われた構図と全く同じ。1927年、世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」、人物の台詞をコマ表示する事も無い。後に「トロン」CGが映画で使われ「スターウォーズ」立体音響に革命が起きて「T2」のVFXは「マトリックス」に引き継がれ「アバター」3D映画として発展。本作の舞台1920年代の作品は既にパブリックドメイン。映画ファンを始めた方は通過儀礼として、触れて見るのも良いかも。

Chazelle監督の特異点はハリウッドが築いたレガシーを小馬鹿と言うか、多数派の保守層の神経を平気で逆撫でするセンスに有る。「ラ・ラ・ランド」一見すると上品に見えて中身は結構なカオス振り、ラ・ラ・ランドがラーメン山岡家とすれば本作は「天下一品」此れ以上のこってりは無い。滅茶苦茶、豪華絢爛、酒池肉林、破廉恥。アカデミー作品賞から除外されたが監督の本音は「お前らのHollywoodなんてこんなモンだろう」。

Brad Pitt 59歳のお相手は「ラ・ラ・ランド」繋がりでEmma Stoneに決まった。しかし、スクリプトが思いの外下品だと辞退。困った監督はBradに相談するとレビュー済「アムステルダム」製作中のMargot Robbieに電話を掛け、スケジュール調整が上手く行き、脚本を大急ぎで書き変えた。2人は「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」共演してるが、一見同じ人に見えない流石の存在感。

私はオールド・クラッシックは全く分からないので、古い映画に詳しい友人を、京都で絶品の串焼きが食べられる「串焼き満天 先斗町店」へ連れ出し、色々興味深い話が聞けた。Bradが演じたジャック・コンラッドの元ネタはJohn Gilbert。あのRudolph Valentinoと肩を並べる二枚目スター。あのGreta Garboと交際する程モテたとか。実際の彼はイメージと異なる甲高い声が災いして仕事が激減。本編では拳銃自殺するが、38歳の若さでアルコール中毒で死亡。失敗作「ハリウッド・レヴィユー」レインコートを着て歌うシーンが有る。それが不滅の名作「雨に唄えば」見事に繋がる。
https://tabelog.com/kyoto/A2601/A260201/26025158/

Robbieの元ネタはClara Bow。セックスシンボルの先駆けで出演した「つばさ」第1回!アカデミー作品賞。トーキーに成ると下町訛りが原因で失脚。ハリウッドは「Hays Code」アルコール、ドラッグ、ギャンブル、セックスを自主規制。右翼系カトリックの意見が通り、Robbieがゲロを吐く白人のエスタブリッシュメントが支配する。ヘイズコードを打ち破ったのがアルコール、ギャンブル、セックス(笑)の「007 ゴールドフィンガー」大ヒットすれば誰も文句は言えない。アメリカ映画協会「MPAA」エンドロールの最後に必ず登場するアレ。現在のレイティングシステムを導入したのは1968年。その起源を創ったのがイギリス映画「007」。

作品は当初からキャストの選出に難航。監督の作風に異を唱える俳優は一定数存在する事を浮き彫りにした。助け舟を出したのがスパイダーマンTobey Maguire。レビュー済「Mr.ノーバディ」彼のプロデュースだが、本作では某有名俳優に断られた役を怪演。Olivia Wilde、Lukas Haas、Max Minghella、Eric Roberts(笑)。女性監督を演じたOlivia Hamiltonは監督の嫁。元ネタはDorothy Arzner、ハリウッド初の女性監督。私的にはKatherine Waterstonがツボ。当初から赤字覚悟の作品だが、蓋を開けたら案の定北米初登場4位→8位と厳しい船出。此の結果がアメリカ人の作品に対する総意と言える。

私も「うーん、どうでしょう?」と言うのが率直な感想。つまり作品の「エモさ」に乗れなかった訳ですが、主演Diego Calvaも良かったし、トランぺッターJovan Adepoを含む4人のパート毎のエピソードは面白くても、ギャグとシリアスがその場のノリで描かれるので、結果的に観客は分裂した物語を自ら構築する必要に迫られる。ソレがカオスと言えば聞こえは良いが、私が求める映画としての緻密な構成美には程遠い。

私は監督のValue価値観を「大きなモノの一部に成れる」と解釈。「ファースト・マン」宇宙開発。「セッション」JAZZへの奉仕。「ラ・ラ・ランド」音楽への道。描かれる人物が去っても、足跡は永遠に残る。批評家の台詞で「映画はスクリーンの中で永遠に生きる」。100年前の1920年代の作品はYouTubeでも見れる。Bradは「映画と言う大きなモノの一部に成れた」例え拳銃自殺でもハッピーエンド。大切なのは感謝の心を忘れない事。

本作を映画愛云々で論じるのはピントが外れてる。監督自身が人に対する執着心とか、恋愛に対する観念がウエットでは無く、冷めた目線で「映画に没頭するなんて狂気の沙汰だよ」自分は映画で飯を食ってるのに、斜めに構えたスタンスが未だにカッコいいと思ってる。映画人なのに肝心な「人」の心が描けて無い。本作を「歪」と表現しても、的外れでは無い。だからJames Francoを始めとする多くのハリウッド・スターは出演を拒んだ。マルチバースな、現代の映画へと続くコラージュを見せられても唐突感は拭えないし、BradやRobbie達の人生が掻き消された様にも見えた。本作のベスト・エンディングはRobbieが車から降りて暗闇に消えて行った・・アレが終幕で良かったと思えたのだが。

「人生って何だろう」映画の世界の一部に成れる。それだけでも幸せな「夢」なのだ。
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