みのりょ

映画 えんとつ町のプペルのみのりょのネタバレレビュー・内容・結末

映画 えんとつ町のプペル(2020年製作の映画)
2.6

このレビューはネタバレを含みます

ちょっと長くなります。。

まず、フラットに物語についてだけ書くと...「周囲から何を言われても自分の夢を見ることの大切さ」「家族愛」といったテーマを伝えることが前面に押し出され、作者の恣意的な展開になってしまっているように感じた。逆に細かい物語の設定について気にしない、寛容な人なら楽しめる映画、ともいえる。

なんでプペルが突然ゴミ山で命を得たのかとか、どうして親父の魂が急に乗り移ったのかとかはファンタジーだし、子供向けアニメだから仕方ないとして。(俺はそういう細かいひっかかりがあると冷めてしまうが)

以下物語の核となる部分についても気になった。

・「星を見たい」と言ってるだけなのに暴言暴力に発展する町人怒りの沸点低すぎないか?
→「夢を叶える過程での辛い経験」を視聴者に植え付けるために作られたシーンに見えてしまった。からかわれるとか無視されるとか陰口を聞いてしまう、というくらいでは夢を叶えた時の感動が弱まるから駄目だったのだろうか。この時点で序盤から物語に入っていけなくなった。

・実は異端審問官だったおじさん、プペルの存在知った瞬間から通報すべきだったのでは?そしてわざわざプペルをかばったリーダーを殺そうとする必要なかったのでは?
→こちらも上の「夢を叶える過程での辛い経験」を作るシーンに見えてしまった。夢を語れば周りの人も迷惑がかかるんだよ、という演出。それやるなら、通報するべきか否かおじさんが葛藤したシーン入れるとかした方が自然で納得感があると思った。いずれにせよリーダーの人は完全に巻き添え。

・中央銀行から国民を守るために外から隔絶したのなら、煙を晴らしただけでは国民たちはまた不幸になるのでは?むしろ悪く描かれた代官たち、やり方は歪んではいるが国民思いなのでは?
→設定に深みがあり面白かったけど、踏み込みが足りない気がした。それなら最後悪役たちの釈明と最後中央銀行と交渉していく、みたいな今後の政府としての方針を国民に誓うシーンがあっても良かった(やりすぎか?)

ここまでが純粋に物語について。
あとは、やはり西野が書いているということ。これが映画を見ながら頭にチラつくのがキツかった。これに関しては2つ。

・西野の物語を見させられている感覚
「ゴミ人間」という本を出していることからも、物語に個人の経験を投影していることは明らか。西野が芸人の常識から外れたことを宣言し、周囲に叩かれてきた経験を物語に綴ったのかな、という。西野が大好きな人ならきっとこの作品も大好きになるに違いない。俺は西野は好きでも嫌いでもないが、それでもこのあからさまな自己投影には気持ち悪さを覚えてしまった。同じ児童作家であるJ.K.ローリングの過去を知ってもハリーポッターに不快感を覚えないのは、過剰な自己投影を抑え、純粋な創造力で登場人物を作り出し、彼らを動かす能力を持つプロの作家だからなのかなと。ここで、本職を別に持つ人が売れる物語を作ることの一つの限界を感じた。

・ビジネスの匂い
映画を見る前に西野が「ハロウィンのキャラクターとしてプペルを定着させる」と言っているのを聞いたこともあり、冒頭のハロウィンダンスの部分が非常に不自然に見え、作品にビジネスが入り込む不快感を覚えた。グッズや限定ショップで留めた百ワニの方が随分ましだと思う。やっぱり、物語には純粋に作者の想像力で人を感動させるものであってほしい。そこにマーケティングとか、人の心理を見透かすような商業的な要素が入ってきてほしくないと強く思う。


西野が相当な長い時間をかけてこだわり抜いて作った作品だということはわかるのだけど、終始モヤモヤしっぱなしの映画でした。
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