猫山

カフカ「変身」の猫山のネタバレレビュー・内容・結末

カフカ「変身」(2019年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

原作(高橋義孝 訳)読了後に視聴。
原作同様に映画も「身内が突然お荷物に変化してしまったら、どう接し、どう扱っていくのか」という問いを投げかけてくるものであり、映画ならではの映像的な面白さ(カメラワークや演出など)はあまりないように感じられた。しかし映画にする以上加えた方がいいであろう変更や省略・補足がしっかりなされていたし、展開を知っていても存外面白かった。
例えば原作では語られていなかった「虫が人間に戻る可能性」についても家族は話し合っていたため、「もしかすると映画では、グレゴールは人間に戻れるのかもしれない」という期待を抱きながら続きを観れた。原作では「いずれ死ぬか殺されるであろう漠然とした不安」を抱きながら胃をキリキリ言わせて読んでいたから、また違った気持ちで観賞できた。

まず、原作のストーリーをそのままに映像化した印象ではあるが、所々アレンジが加えられていた。例えばグレゴールの死に逝く時刻を明確に示したり、その後家族が暮らしを変化させるまでに時間を要したりと、時間を感じさせる変更(補足)が多かったように思う。
特に後者に関しては映画全体から観ても納得のいくものだった。原作よりも妹は兄を「兄」として扱っており、グレゴールも家族も「虫から人間に戻る」可能性を考慮している。その期待を捨てきれなかったからこそ「穢らわしい虫の死」は原作よりも「兄の死」として響いたのだろう。それゆえ最後の「グレーテはようやく肩の荷を下ろすことになった」(Amazon primeの字幕版より引用)という部分にも、視聴者は「時間をかけて兄の死を受け入れていったのだろう」と同情や共感をしやすい。
一方で原作ではグレゴールが死んだ当日に清々しい気持ちで休息と散策に向かっているため、胸糞の悪さや不気味さも同時に感じられる。おそらく映画よりもグレゴールの心理描写が多いことも要因なのだろう。
どちらも違った方向から同じ問いを投げかけてくるというのは面白いと思った。

また、「虫」をしっかりと視覚的に描写していることも取り上げておきたい。原作者フランツ・カフカは、扉絵に「虫に成り果てたグレゴール」を描くことを拒否している。これは「虫になったことは何かしらの暗喩であるためだ」とする言説が多く、実際その類だと思われる。そのため映画で虫の姿を描写することは原作者の意志に反することであった訳だが、「虫への変身」に内包された比喩を踏襲した上で視覚化していたと感じる。
原作とは異なって視覚的に「虫」として描写したならば、それはまごうことなく虫である。病気や事故などの暗喩であると主張しても、人間の情報判断の8割が視覚である以上「いやでも完全に虫じゃん」と取り合ってはもらえないだろう。
そこで取られた対応が①ナレーション ②ゴキブリのような外見 なのではないのだろうか。

①ナレーション
映画を通して、状況説明や心理描写などを一手に請け負っているのがナレーションである。映像だけで伝えるのではなくわざわざ外側にいる「神の視点の誰か」に説明させる訳であるから、悪く言えば映画に入り込みづらい。しかし良く言えば「神の視点の誰か」に作られた創作としてこの映画を捉えられるのである。
創作物の中の話であると認識させる方が、現実に虫になってしまったと描写されるよりも「何かの比喩である」という可能性に気が付きやすい。

②ゴキブリのような外見
原作では「ゴキブリのよう」など、具体的な名称を出して見た目を表すことはなかったはずである。一方映画では女中が明確に「ゴキブリ」と例えているし、見た目も完全にそれである。原作では読者は与えられた情報から「思い思いの気持ち悪い虫」を想像出来るが、映画はゴキブリなのだ。
これがどう功を奏していたかと言うと、ゴキブリが(悲しいことに)人々から忌み嫌われる象徴として扱われていることに理由がある。もしこれが原作のイメージを膨らませて生み出された、様々な悍ましい害虫のハイブリッドであったならば、虫になったということを比喩として捉えづらいであろう。しかしこれがほぼ、嫌われる対象のゴキブリの見た目であるが故に、「グレゴールが厭われている」という事象と「ゴキブリが嫌われている」という事象が無意識に繋げられる。これは視聴者が比喩であることに気づく糸口になり得るのである。

これらからも分かる通り、視覚化によって訪れる変化を踏まえた上で、原作で表現しようとしたであろうことを汲み取ろうとした努力が観られる。
映画から問いを投げかけられたい人や、原作と映画の表現方法を比べたい人なら、観て損はないだろう。
猫山

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