子キツネのゴンが、ちょっとした悪戯から人間に逆恨みされ、母親と同じように撃ち殺されてしまうという悲惨な物語です。
ゴンの母親の命を奪った人間たちの蛮行に比べれば、兵十(ひょうじゅう)に捕らえられたうなぎを逃がしたゴンのいたずらなんて、足るに足らない話だ。そもそもゴンは、兵十にいつ命を狙われるとも知れない身。うなぎ問題を気に止める必要なんて全くなかった。
それにもかかわらず「殺される側」のゴンは、なんと「殺す側」の兵十に対して罪の意識を抱く。「君のお母さんにうなぎを食べさせてあげられなくて、ごめんね」と。そして、イワシやクリの実を兵十の家にこっそり届けるという「償い」を繰り返す。それが原因で、家の中で兵十と鉢合わせし、火縄銃で撃たれる。
絶命寸前のゴンの横に転がるクリの実。「お前が罪滅ぼしのためにクリの実を運んでいたのか」と兵十が問う。これに、弱々しくうなずくゴン。兵十は「俺は誤解していた」という表情で天を仰ぐ。哀れすぎるゴン!
原作は、小学校の国語教材によく用いられている。解説書の一つを見たら「いくら謝罪に努めても、相手に伝わらない難しさがある。『ごんぎつね』を通じ、世の中の難しさを子どもたちに学んでもらいましょう」という趣旨のアドバイスが書いてあったが、それは違うと感じた。
「うなぎを逃がしたのは我慢ならない」と憤慨して相手を射殺したら、正真正銘の殺人であり、凶悪犯罪だ。「難しい世の中だ」とため息をつけば許される話ではない。
「いやいや、撃たれたのは人間でなく、キツネだ」という指摘もあるだろうが、原作におけるキツネは人語も道徳も理解している。いわば「キツネ人間」と呼ぶべき存在だ。それを表すかのように、本作品でのゴンは、ヒトの少年をかたどった顔をしていた。本作品は、ゴンの人格を認めているのだ。
人格を有する存在は通常、人間と呼ぶ。つまり、国語教科書の解説書は、ゴンも兵十も人間とみなした上で、それらの人間がつくる「世の中」の不条理を生徒に学んでほしいと訴えているわけだ。
だから、解説書には問題がある、と感じた。問うべきは「支配される側」の謝罪方法であり、「支配する側」の殺害行為は不問に付して良い―という道徳観が導き出されてしまうからだ。
もっとも原作者の新美南吉がどういうメッセージを込めたかは、知る由もない。難しく考えず、美しくも切ない童話だと受け止め、このストップモーション作品を堪能した方が有意義かもしれません。
映像は、見事!たなびくススキ。夕焼け雲。あぜ道の祠。そしてあどけないゴン。和の世界にどっぷり浸れる良作です。