うにたべたい

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のうにたべたいのネタバレレビュー・内容・結末

3.3

このレビューはネタバレを含みます

1969年5月に東京大学教養学部900番教室で行われた討論会に関するドキュメンタリー。
それは、政治的な発言が増え、日本の伝統や文化を守るため"楯の会"を構成した三島由紀夫を、東京大学の学生運動連合体、所謂、東大全共闘が招き寄せて行われた討論会で、東大全共闘のメンバー100人に対する、生きた三島由紀夫の映像が流れたものとなっています。

全共闘は、元は大学のあり方、学生に自治が認められていなかったことに対する不満、加えて、大学運営側の不透明な学費の使用用途が発覚したことにより、一揆のように全国に広まった学生組織です。
同年の1969年1月に東大全共闘は、アメリカの起こしたベトナム戦争反対や学園自治の容認を求めて安田講堂を占拠する、安田講堂事件を起こしていました。
本作で三島由紀夫と対峙する東大全共闘のメンバーの多くは、おそらく全員、安田講堂事件に関わっており、そこへ単身乗り込む三島由紀夫の胆力は、これはもうとんでもないものだったのだろうと思います。
この討論に三島由紀夫は、警察の護衛も楯の会の同行も断り、腹巻きに自刃用の短刀を忍ばせて舞台に登ったというので驚きです。

血気盛んなゲバルト学生100人と、筋骨隆々で剣道四段の腕前を持つ文豪・三島由紀夫の討論なので、討論が口撃になり乱闘が始まるのではないかと固唾を呑んで視聴を始めたのですが、討論の模様は意外にも和やかで紳士的でした。
討論内容は極めて抽象的であり、国の方向性をどう改革するべきであるのかといったような具体的な内容は論じられないです。
序盤から三島由紀夫は、学生である彼らが熱情を押し通すため"暴力"を行使して、知識人のうぬぼれという鼻っ柱を叩き折ったのは、絶対に認める旨の発言をします。
それに対して司会の木村修が三島由紀夫を先生と呼び、彼を「そこら辺にうろうろしている東大教師よりは先生と呼ぶに値する」と言い、三島由紀夫はタバコを吸いながら笑顔を浮かべる場面があります。
その後も、討論はユーモアをはさみながら行われており、見ていて楽しさすら覚えるドキュメンタリーだったのが、まずは意外でした。

ただ、肝心の討論の内容は個人的には不満が残りました。
"人間にとって他人とは何か"という内容に、三島由紀夫はサルトルの言葉を用い、『意思をもった主体』と述べます。
縛られた静物ではなく、『意思をもった主体』であるからこそ、闘争するのであると、そこへ、全共闘の論客「芥正彦」氏が登場します。
安田講堂は革命勢力にとっての解放区であったが、その期間は長くなかったです。
だが、問題なのは期間ではなく、"解放区であった"それによる広がった空間であり、時間や、もっと言えばそこで培われる歴史ではない。
国家やその歴史に囚われた行動ではなく、そこからの脱却が重要であるとしているように思いました。
私の解釈が入ってしまいますが、その考えを開放できる場が芸術であり、芸術性とは関係性とは切り離されるものであると述べているように思いました。
一方で、三島由紀夫は、「日本人という限界を超えなくていい」、「日本人として生まれ、日本人として死んで、それでいい」と述べます。
それであれば、三島由紀夫は芥に、芸術は他者との関係の中で培うことができることを述べるべきではと感じました。
ここで芥が討論を行わずに、関心を無くして帰ってしまうのが非常に残念でした。

また、終盤に三島由紀夫は、"討論の中で大勢の人間が天皇と言った"、"言葉が翼をもってこの部屋を飛び回った"旨の発言をします。
ですが、本作中に全共闘が天皇について語るシーンは収録されておらず、ここは映像として残っていなかったのか、残っていたけどカットされたのか、違和感を感じました。
"左翼"と雖も、反資本主義や反米が対象とした討論ではないです。
討論中ではそういった話も飛び交ったのかもしれないですが、どうにも当たり障りのない内容だったような気がします。
現在存命中の芥氏へのインタビューシーンもあるのですが、インタビューする方の理解がぬるいのもなんだかなと思いました。
ナレーションが政治思想の感じないタレントを起用しているのも薄っぺらい感じがします。
私は三島由紀夫氏は結構ファンなので、氏が動いて語っている姿を見るだけで喜びがありましたが、どうせならもっと尖った問題作にしてくれたらよかったのにと思いました。