keith中村

MINAMATAーミナマターのkeith中村のレビュー・感想・評価

MINAMATAーミナマター(2020年製作の映画)
5.0
 恥ずかしながら、水俣病については学校の教科書で学んだ以上のことは何も知らなかった。
 それどころか、ユージーン・スミスさんについてはまったく無知で、「MINAMATA」という写真集の存在すら知らなかった。
 いや、教科書で水俣病を知ったときも、それがその時点でまだまだ現在進行形で訴訟が続いているということも、当時は知らなかった。
 
 歴史的に不名誉に刻まれる出来事は枚挙に暇がないし、そういった出来事の劇映画化も数限りない。
 それこそ、戦争映画は山のようにある。カレン・シルクウッドさんの物語や、ルワンダの惨劇、あとウォーターゲート事件なんかもありますね。
 映画には、そういう一生行くことがないような土地で起こった惨劇を世界中に発する機能もある。
 もちろん、場合によっては、我が国が舞台なのに知らなかった出来事を、外国の人(=洋画)に教えられてはっとすることだって少なくない。
 私にとって、本作はそれでした。
 
 古典では、何がありますかね。
 あ。巨匠ジョセフ・フォン・スタンバーグの凋落期の「アナタハン」とかありましたね。
 最近では、クリント爺さんの「硫黄島~」。本作でジョニデ演じるスミスさんは、本作で語られたように沖縄戦に戦場カメラマンとして派遣され、本作で描かれたような大怪我を負ってるんですが(2年も療養してたらしいです)、硫黄島にも行ってるんですね。
 沖縄戦と言えば、これまた人柄はともかく、映画作家としては滅茶苦茶信頼できるメルギブ兄貴の「ハクソー・リッジ」がありました。
 篠田正浩に続いてスコセッシが映画化した「沈黙」は、もちろん狐狸庵先生の小説が原作だけど、クリストヴァン・フェレイラは実在の人物だもんね。篠田版では丹波さん、スコセッシ版ではリーアム兄さん。どっちもマジ怖いよね。
 
 本作もそういう系譜にある。
 しかもこれ、面白いのが、物語の枠組みとしては、「PCな現代ではいかがなものか」という、典型的な白人酋長もの・ホワイト・ウォッシング映画(日本が舞台なら、トム兄さんが戊辰戦争を戦うやつとか、キアヌ兄ちゃんが赤穂浪士になるやつね)なんだけれど、「だって、それが事実なんだからしょうがないじゃん!」ってところ。
 
 もちろん、劇映画なんで、すべてが事実通りってわけじゃない。
 ジーンさんがチッソの社長に金で口封じされかけるところとか、現像小屋が焼き討ちに遭うところなんかは、恐らく映画的誇張なんだろう。あと、この映画で描かれた勝訴は、水俣病ではなく、新潟の第二水俣病の裁判の結果をミックスしてる。ジーンとアイリーンだって、そもそもすでに恋愛関係にあって、日本に来てすぐ結婚してる。
 ただ、被害者たちがチッソの社長に詰め寄るところとか、ジーンさんがチッソの社員の阻止にあって片目を失明しちゃってるところなんかは史実なんですよね。
(教科書以上には何も知らなかったってわりに、ずらずら詳しく書いてるのは、帰ってきてから調べまくった結果なんだよ! 悪いかよ!)
(チッソって、だからとうに倒産したと思ってたけど、まだ存続してるんだね!)
 
 まあ、史実や事実に即した部分に感動したり、褒めちぎっても、劇映画としての本作を称揚してることには全然ならないんで、映画としての本作を褒めますよ。
 まずは役者陣。
 特に日本チームね。
 序盤の浅野さんの見事さ。もう、フツーに熊本県民の被害者家族の無力なオッサンにしか見えないの。あんた、こないだ「ケイト」のヤクザ役、超怖かったよね! ほんとに同じ人?
 もちろん、真田さんも加瀬さんも素晴らしかった。
 あと、チッソの社長が腹立つんだわ! ノジマ・ジュンイチこと國村隼さん。当時のチッソの実際の社長は「島田賢一」らしいので、ちょっと名前をずらしてる。まあ、腹立つってことは、それだけ憎まれ役として素晴らしいってことなんで、浅野さんと同じく「ケイト」に出てた國村さんがマーヴェラス。
 本作は、危なっかしい日本語がまったくない映画なんで、浅野さんも國村さんも、「ケイト」よりは安心して演技できたんだろうね。
 
 アメリカ・パートでの役どころとしては、ビル・ナイのキャラクターもよかったですよね。
 ただ、なんでわざわざイギリス人のビル・ナイをキャスティングしたんだろ? ビル・ナイの喋るアメリカ英語ってめっちゃ違和感があるわさ。
 まあ最近は、アメリカ人がイギリス英語話すことも、その逆もいっぱいあるけど、私にとっちゃあビル・ナイとマイケル・ケインがアメリカ英語で話す時だけは違和感が半端ない。立川談志が大阪弁を流暢に操ってるくらい違和感がありますね。
 
 なんか、ここまで通常営業の「焼酎をラッパ飲みしながらレビュー」なんだけれど、些末なことしか書いてない気がする。
 何を思って、本作をレビューしようとしたんだっけ……?
 
 思い出した。
 本作最大のテーマは、ジーンさんことジョニデが語る台詞なんです。
 「アメリカのインディアンには写真を撮られると魂の一部をもってかれるという伝説がある(これ、日本にも昔はありましたよね)。でも、写真を撮ってるほうも、魂の一部をもってかれるんだ」
 もともと支持してた水俣市が「本作の製作意図が不明」という観点で、本作の後援を拒否したのも理解できる。
 だって、本作は"MINAMATA"の惨事を世界に広めようというドキュメンタリーでは、全然ないもの。
 ただ、それでもこれは、ドキュメンタリー作家が、ファインダーを覗き込むごとに、どんどん魂を擦り減らしていくこと。それでも撮影せずにはいられない宿痾。そういった水俣病に留まらない、もっと普遍的な(ごめんなさい。「水俣病に留まらない」なんて不遜で失礼な言い方は絶対できないんだけれど)、「何故我々は映像を撮り続けるのか。そして何故我々は映像を見続けるのか」に向き合った作品なので、普段「もっと物語をおくれよう。もっともっと、僕らを物語で楽しませてくれよう」と享楽的エンターテインメント乞食に成り下がってる私のような映画ファンにはスカルが割れるくらいの鉄槌を打ち付けてくれる、「魂を擦り減らしていく作り手の煩悶と葛藤」を描く傑作なんですよ。
 
 私も学生の頃は8mmカメラのファインダーを覗き込んで撮影してたけどさ。
 私ゃ、絵コンテに沿って、「劇映画」撮ってただけなのさ。
 それこそ、「ファインダーを覗き込む覚悟」なんて、ただの一度も味合わなかったわさ。
(あまりに不遜になる余り、視度調整すらせずに撮影したリール一本分が全部ピンがボケボケで先輩に迷惑かけたことすらあったわな!)
 だから、本作は私がいかにお気楽に「映画」を享受してきた愚か者だったか、それを戒める機能を持った傑作なんですよ。
 こないだも、何かのレビューに書いたけれど、それこそホラー映画「キャビン」と同じく(「キャビン」と本作を同列に論じるのがあんまり正しくないことも分かってるけど、私と同じ感覚のレビューさんもいるに違いないとも確信してる)、本作も「映画から真正面に歯向かわれる感覚」を催すマスターピースですね。

 「日本の恥部」を描くというだけで反撥する人もいるでしょうけれど、そういうことだけじゃない作品なんで、もう是非「劇場へGO!」ですよ。
 「入浴する智子と母」の撮影シーンでは、私も含めて、劇場全体でぐすぐすと洟をすする音がこだましてたし、豊洲のシネコンでは、エンドロールの最後まで誰一人席を立たなかったですよ。
 
 あ。エンドロールといえば、本作はアメリカ映画なんだけれど、日本とセルビアとモンテネグロでロケが行われたんで、非アメリカ人スタッフの名前が多かったですよね。
 エンドロールで気になったのは「USNIJIMA」さん。想像するに、「牛島さん」をクレジットするために、漢字がわからないスタッフが「ローマ字で書いてください」って依頼したんだろうね。で、そのローマ字がちょっと汚かった。「N」と「H」、ちょっとした角度の違いでごっちゃになっちゃった。
 だから、「USHIJIMA」と書かれるべきだったエンドロールが「USNIJIMA(ウスニジマ)になっちゃった。
 「みなまた」の両隣の駅名が「ふくろ」と「つなぎ」まで非常に正確に描いていた本作なのに、ちょっと残念!
 
 「SAG-AFTRA」のロゴと同列にクレジットされてた「肥薩おれんじ鉄道線」、今じゃ津奈木駅の前に「新水俣駅」が作られてるんですね。
 私が三歳だった本作の時代にはそれはまだなかった。
 なんかさ、でもその両隣の「ふくろ」「つなぎ」って、微妙に本作のテーマと合致してません?
 ……。事実は映画より奇なり。