Fitzcarraldo

ラスト・ショーのFitzcarraldoのレビュー・感想・評価

ラスト・ショー(1971年製作の映画)
3.0
原題“The Last Picture Show”
これを直訳すれば「最後の映画興業」で間違っていないと思うが…本編の内容と些かズレているように感じる。

シネコン勢に大蛇の如く丸飲みされていくかのように、あれよあれよとミニシアターが続々と閉館に追い込まれている昨今…ミニシアターを愛し文字通りThe Last Picture Showを見届けてきた自分としては、本編は「最後の映画興業」というより、金持ち淫乱女のストリップショウと銘打つ方が相応しいのではないかと感じた。

オールタイムベスト級の大傑作“Paper Moon”(1973)のピーター・ボグダノヴィッチの監督作だし、古きよきアメリカを白黒でノスタルジーに描くこともこの2本は共通しているので、見る前から期待値MAXまでガン上がりしたのが先ず反省するべきか…

何事も過度の期待は持たない方が身の為である。
合コンがその最たる例であろう。
合コン以上に時間の無駄な行為はない!!もう二度と行くもんかッ!!と心に誓っても誘われたら何故か断れない魔力がある。それは期待という魔力だろう。株をやったことはないが、株の売買と合コンは大差ないだろうと…
この会社は将来物凄い売り上げを上げるだろうから、いまのうちに買っておこうとなる。そこには売り上げるという期待値が孕む。女性を株と見立てている訳では毛頭ないが比喩として、同じようなことが心の中で起こっているのだと思う。期待という見えない未知なるものによって…。
そして過度の期待という魔力に憑かれて参加した合コンには本作と同様な失望を受ける。期待には自分のイメージが含まれていて、そのイメージ(いいもの)を守ろうとするのか、イメージと違うものが表れると反発するようになったり、興味がなくなったりする。
だからこそ、何も期待しないように前情報を入れないで見るようにしているのだが、ピーター・ボグダノヴィッチで白黒というだけで過度に期待してしまった…
もちろんイメージと外れても非常に惹き付けられたりすることもあるが(合コンではなかったが…)、それは作品のもつ力が圧倒的でないと覆すのは容易ではないように思う。

Wikipediaによると、1968年に当時一番勢いがあったモデル事務所のスチュアート・モデルズ主催の第2回モデルコンテストで優勝したシビル・シェパードは高校を卒業して瞬く間に売れっ子モデルになり、1968~70年の間はファッション雑誌グラマーの表紙はシビル・シェパードとシェリル・テイーグズがほぼ独占していたほど人気が高かった…らしい。

そんなシビル・シェパードを何れかの雑誌で見かけたピーター・ボグダノヴィッチは彼女を本作に大抜擢した。
これって思春期のオトコならば誰もが妄想するであろう夢のような話、まさにアメリカンでドリームな話ではないか!!雑誌をペラペラめくり、あっこの娘ッ!!次の映画で使いたい、おっぱい見たいから脱ぐ役ね!!とピーター・ボグダノヴィッチが思ったか定かではないが変態オジサンの夢の映画化のような印象は拭えない…

このシビル・シェパードは、このあと“Taxi Driver”(1976)で、デ・ニーロ演じるトラヴィスが惚れる女ベッツィーとしてまた世の殿方らの下半身のご機嫌を伺うべく登場する。
圧倒的一目惚れ度の高いシビル・シェパードは同じ年に“Mad About the Boy”というStan Getzをはじめとする手練がサポートしているという豪華なセッションアルバムを発表。「彼に夢中」なんて世の殿方が悦びそうなタイトルをつけるあたりプロ彼女の香りがしますな。

脱線しまくってるが、ピーター・ボグダノヴィッチ同様に自分も、シビル・シェパードの魅力にやられてしまっているのかもしれない。ピーターに対してただの嫉妬と言えなくもないが…

物語の話を…
シビル・シェパード演じるジェイシーのオトコを渡り歩く遊牧民ぶりが見られる話(ここが先ず好きではない。現代の恋愛観には近いとは思うが、次から次へと渡り鳥のように男を変遷するのは、それ相応の理由がないと見てられない。そういう女性です、では嫌悪感しか抱かないし、何も考えていない無能な人間に見える。わざわざ映画にして人間を描くのだから、何かを学び成長する姿なりを少しは見せてほしい。途中、処女を捨てて肉体的には成長を見せるも特にやってることは変わらないし、成長は見えない)

ティモシー・ボトムズ演じるソニーの不倫話(ペタジーニかッ!!とツッコミたくなるほどの年齢差の不倫。因みにペタジーニは友達のお母様と25歳差を乗り越えて結婚している。本編では高校生のソニーと、ソニーが属する部活のコーチの奥様との不倫。渡辺直美そっくりの彼女が最後までヤラせてくれないから別れたばかりとはいえ、思春期の頃は誰彼構わずセックスしたくてしたくてどうしようもないとはいえ、車で病院へ送り迎えしただけで、20以上歳の差あるコーチの奥様と不倫するかね?!不倫は文化でお馴染みの石田純一も22歳差で結婚したから、まぁあるんでしょうけどね…高校の授業シーンに他にも女の子いっぱいいたし、渡辺直美の彼女と別れてもコーチの奥様とは流石にリスクしかないと思われる。それも途中ジェイシーに誘われたら、ホイホイついていくあたり、それほどの軽い気持ちで不倫してたんしょ⁉と、やっぱり思ってしまう。ルースターズ宜しくヤリたいだけ!!コーチの奥様の方が壁紙を替えたり熱を上げていたがね。ヤリたいだけのセックスシーンほど美しくないものはない。)

ジェフ・ブリッジス演じるドゥエインの一途な話(結局「俺はまだ好きだ…彼女のことが」と、インポだ何だ言われ気分屋ジェイシーにフラれてしまうも、最後の最後までジェイシーを一途に想い続けるドゥエインこそオトコだと感じる。ジェイシーを想い続けながら朝鮮へ出兵する前の晩に、テキサスの田舎町アナリーンで小さな映画館が閉館前の最後の作品“Red River”(1948)をソニーと二人で見に行き、生きてたらまた会おうと旅立つ)

この三つの話が入り乱れて進んでいくのがこの映画なのだが、ペース配分や時間の割き方のバランスがどうも悪いように感じる。だからこそ、すんなり物語に入っていけないのか…
ジェイシーがどこにでも顔を出してくるから、とッ散らかってしまっている印象になるのか、誰にも感情移入できないというか、誰目線で見ればいいのか分からなくなる。そうなると勝手にやって!!感が高まり愛想尽かしてしまう。それに過度の期待が合わさって余計にそう感じてしまう。

The Last Picture Showは3人しか入らずに寂しいラストを迎えるも、ポップコーンも作れない映画館長代理の婆さんの最後の言葉「もう、お客は来ないの。野球したりテレビを見たりで…私じゃ無理だわ」が現代にも全く同じことが言えるし、とても寂しくなる。
「もう、お客は来ないの。スマホでゲームしたり、インスタを見たりで…私じゃ無理だわ」
数多くのミニシアターが閉館となり、文字通りThe Last Picture Showを見届けた者として、このシーンだけは登場人物と同化して何とも言えない感情となる本作のハイライトといえる。
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