レインウォッチャー

勝手に逃げろ/人生のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

勝手に逃げろ/人生(1980年製作の映画)
3.5
ゴダールさん、商業映画へ久方ぶりの帰還。

『ワン・プラス・ワン』からこれまでの間がミッシングリンクした状態で観ると、ずいぶん変わった印象。どこか憑き物が取れたようでもある。

ポップアート的なカラー統制は鳴りを潜め、自然光を活かして2人の女優をこの上なく魅力的に映す。田舎暮らしを計画するTV局職員ドゥニーズ=ナタリー・バイと、街をすり抜けるように生きる娼婦イザベル=イザベル・ユペール。
火と水のように対照的な彼女らの横顔と髪は、まるでフェルメールの絵画のような窓辺から洩れる淡い光の中に透けて、最後には結びつく。

お得意のメタ演出も様変わりして、今作ではついに(というか何というか)ポール・ゴダール(J・デュトロン)なる映画監督を主人公格として投入し、懊悩をストレートに吐露して見せる。

彼は家庭(妻と娘)とも愛人ドゥニーズとも関係性を確立できず、あまつさえ仕事についても「自分はまだ何も成し遂げていない」とすら言わせているのだ。
対照的に、ドゥニーズとイザベルはうっすらとポールを中継地点とするような形で繋がりをもつ。交わる機会のなかったはずの女2人が、どこかシスターフッドに近い連帯を見せ、逆に彼の孤立を際立たせている。

安直な発想にはなるけれど、今作においてゴダールさんは自分が撮りたい映画とは何か、ということや、映画を撮る意味を再構築しようとしていたのかもしれない。

明らかに違和感を与える目的で多用乱用されるスローモーションやコマ送りは、映画とはそもそもある瞬間の連続に過ぎないことを思い出させる。
そして、それは人の記憶や人生と似ている。わたしたちは自己を過去からひとつの流れとして途切れなく続いているように感じているけれど、実際に思い出せる記憶・思い出は切れ切れのスナップショット、場面の断片だ。それらを恣意的に繋ぎ合わせて、自己の姿をこれと思い込んでいる。

映画もまた結局は同様の錯覚に過ぎず、自然に流れて見えるシーンもその断片を抜き出して晒してみれば、滑稽だったり不自然に見える。編集の悪魔であるゴダールさんらしい発想と思ったりもするし、『気狂いピエロ』の「C'est la vie(それが人生さ)」が、ここにきてピッチを変えてリフレインするようでもある。あの頃の若さというか、オレ様感は変質している。

また、映画につきものの「演出」についても問い直しているようだ。
イザベルが客の男たちから受けるロールプレイの指示や、田舎の自然の中で自転車を走らせるドゥニーズの周囲に散見される作業用の機械たち。これらの強く「段取り」を感じさせる物事は、リアルな生と映画の共通点となるのか、隔たりなのか。

何にせよ、この映画の中では答えが出ず、次作『パッション』へと直結していくことになる。
ストーリーは?ときかれたら、あらすじ未満の変な映画なのだけれど、なんだか人並みに七転八倒している様子がちょっと微笑ましくもある愛しやすい一本だった。とりあえず言っておきましょう、「おかえりなさい」。