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椿の庭のotomisanのレビュー・感想・評価

椿の庭(2020年製作の映画)
4.2
 思わぬ不幸から、としより夫婦が外地で暮らしていた孫を引き取る事になる。ほどなく老主人は亡くなって老若女二人。孫はふた親を外地で亡くし戻るあてもなく、この逗子の地で言葉も英語は封じ、いまは日本語を修習中と、ことさら静かな言葉少なな毎日になる。
 あとからそれらを知らされるが、巻頭の、庭に埋けた金魚鉢も凝る寒中、木立に沈む椿の落花に居るべき人を失った屋敷のそぞろ気な空気の重みを覚える。あの絹子さんもなにかのまぼろしのようで、その椿の茂みの先は伊豆の山まで深海で隔てた無人境。街道のざわめきからも離れひと気のないこの地だが、社会は休まず相続を迫り税務を突き付ける。

 逗子の丘陵から木間越しに眺める海が安かろうはずがない。そんな税務上はただの家屋と地所だが、この家に嫁いで半世紀、思い入れ深い住まいであり丹精込めた庭であるはずだ。それを十月で立ち退くなりなんなりせよという。
 この家で長女は親に反抗し、ここを出て外地に男と駈落ちして20年、しかしその夫は早世し、長女本人も「ごめんなさい」ひとことを残して昨年亡くなってしまった。いつかはここに戻れる日が来ると、互いが意地を張り合う歳月の裏で思い続けてきたのだろうが戻って来たのは孫娘。一年少々でふたりが世を去った、なんとも力が殺がれるようなこの来歴は、やがて初夏から夏というのに、この映像の泥んだ閑寂さ、添えられる芝居と言葉の間遠さの理由となっている。

 老女と孫娘の暮らしの最後となるだろう晩春から冬まで、老夫のいた頃と変わりなく手入れされる庭とそれに連なる居室と海が住む人と共にどれ一つ欠けてもならないような調和を伝えてくる。だから、夫がその中で先立ったように、妻もこの調和が失われる前にこの地で亡くなることを企図する。
 死ぬと決めたら、それに向けて渚に何を伝えようか。手元を逃れて行った長女への想い。遂に送りそびれてしまった初孫、渚誕生の祝いの品。そして、まもなく失われるこの地に住まうなかで培ってきたこの屋での暮らしと庭に傾けた精魂は海に空に相和して今、自分は渚とこうして居る。
 この喜びは本来、20年の不在の後、きっと長女と父親もともに感じるはずのもので、そうしたすべてを長女が受け継ぐはずだったのだ。そのことをこの孫にどう伝えよう。それがもう叶わない今、代わりに何を伝えよう。

 間もなく主を失うこの屋も庭も、それでも落ち葉を掻き手入れを続ける。それは自分ひとりのための事ではなく、孫娘が将来、誰かと共に暮らすようになるそのときを包み込むその場を敬して整える、そんなこころを伝えるためである。この年寄りにとっての海であり椿の庭のようななにかを、渚がこれと認めて慈しんでくれればいい。どんな空の下の小部屋であれ、ふたりの、一家のあるところを大事に思うようであってほしい。と、この年寄りの先立つ間際を承知のこだわりを通して伝える事。これが残りわずかと定めた余生の意義である事が伝わってくる。

 しかしながら、薬を断った祖母に気付いても叔母への連絡をためらい、祖母とその秘密を共有する事を選んだ渚をどう捉えよう。この地で祖父の後を追うと決めた祖母の憂いが叔母に対しては無いのなら、渚自身が祖母のもとにいる限り、その憂いに寄り添い解決を目指す事がよいと思ったに違いない。
 それは叶うのか手遅れなのか、ただ、相続もビジネスも立ち退きも日限がある中、またそのために祖母のこころおきの消えるはずがないのなら、徒に祖母への説得にときを費やすよりも祖母の望みを探り受け止め渚の滋養とする事に尽力する、それこそが功徳と信じるのだ。
 ただそうは思っても、母と祖父を相次いで看取り、やがてこの血統最後のひとりとなり、あるいは独りのまま死に絶える事ととなるかもしれない渚において、死に急ごうとする祖母と向かい合う暮らしがどれほど葛藤に満ちたものになるか、この物語では葛藤の事実を認めるにとどまっており、この一事だけでも主題とすべきことに結論を早まりすぎている。
 おそらく、ふたりの闘いがあったとしても平行線のまま祖母の死を迎えることになって渚の胸中には、説得の失敗と同時に祖母の残り時間をさらに削ってしまった自責とが複雑なわだかまりとして残り、素直に祖母からの贈り物として住まい論を引き継げなくなることを嫌ったのだろう。だが、祖母の意志に対する渚の物分かりの良さは却って叔母夫婦との同居でなく僧房のような独り暮らしに向かわせる事と関連して捉えられそうで、その胸中の測りがたさが、金魚と向き合う渚を奇妙な虚無に落とし込んでしまうような気がする。あの絵はどこか悲しむべき事を蓄えている。

 そうした一方で、ぬけがらとなったあの地がやがてビジネスの対象となる。そのさきに新しい住人がやってきて、その地になにを見出すだろう。沖の向こうに霞む伊豆半島とローンの払いとを天秤にかけるのか、足元に金魚の手水を隠した椿の茂みとプロムナードをよろこぶのだろうか。なんであれそこには新しい住まい論が起こり、1955年後楽園のジェットコースターに歓声を上げていた絹子さんの以来半世紀以上は渚の記憶の中だけに灯るだけとなる。
 3人の死を見送った2年ののち、修道士が僧房に籠るように渚が金魚鉢と向き合うその先にあの小さな庭が祖母と祖父、そして母親がよみがえるのかもしれない。そしてなにかが癒され渚も言葉を取り戻すだろうか。その声は誰の名を呼ぶのだろう。
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