せいか

ファーザーのせいかのレビュー・感想・評価

ファーザー(2020年製作の映画)
4.0
7.26、レンタルDVDにて視聴。

元は2012年に発表された戯曲。フランス人の作家でフランスで初演されたのやら主人公の名前がアンドレなのやらから察するに、元の戯曲のほうの舞台はフランスなのだと思われる(映画版ではイギリスだし言語も英語)。
この映画は脚本・監督共に戯曲を書いたフローリアン・ゼレール(+脚本のほうにクリストファー・ハンプトン)が手掛けているので、少なくとも作者の意図に反するような映画作品にはなっていないのだろう。舞台のほうは観てもいないし、たぶん戯曲も現在はフランス語のものか英語のものを取り寄せるしかなさそうなので、そのへんの比較は私にはできない。

この映画はとにかく鑑賞者も重度の認知症にある主人公のアンソニーの混乱を追体験するような構成になっている。終盤、施設の中で「何が起こっているのか、私にはわからない」といったような言葉を彼が介護士に語るが、まさにその通りといった作品なのである。
延々とリピートするかのような現実、それなのに話は噛み合わない、だれもかれもにやっかまれ、記憶が信頼できないけれどそのことが直視できない。時間の経過というものもない。個人的に認知症というものを心底恐れているので、かなり怖い映画でもあった。
そしてこの父を前にして疲弊し困惑する娘のこともよく分かる。冒頭で娘が「ちゃんと話し合いましょう」と言い、アンソニーが「こうしてちゃわと話してるじゃないか」といった会話をするところがあるけれど、そのお互いの視線の合うところのなさとか、本作の特徴をよく表しているシーンだったと思う。

舞台は家の中であっても同じ間取りでも何やら変化が起きていて(アンソニーが自分の家だと思い込んでいる時と、実際は娘の家であるときの落差の表現だろう)、なんと他の場所でも(クリニックや介護施設)間取りなどが同じで、家具の配置等などもデジャヴを感じるようになっていて、観ているこちらも彼の混乱がどういうものなのかが分かってしまうように作られている。

作中ほとんど彼は家から出ないのだが(出るのもクリニックや介護施設のみだし、それも彼にとって家の延長として混濁のうちにある)、そこで出会う人物たちも自分の認識の外にあって、何ならば娘のことすら認識できず、目の前にいる人々に対して戸惑いながら折り合いを付けていく。彼の聖域であるはずの家の中にもただ混沌が満ちていて、彼の家がまずもって彼の脳の暗喩でもあるなだろうなあと思った。ヘッドフォンをして音楽を聴いて目をつむって、そうやってさらに世界を閉じるほうがよほど安息できる秩序だった世界にあるのだろうなあ。

彼はこの自分の脳みそ的象徴、自分の絶対の居場所である「家」を言うとき、「フラットflat」と強調する。これはイギリス英語でいわゆるマンションの家を指す言葉で、実際、舞台となる家もなかなか広くて中流~上流(?)くらいが住んでいそうな余裕のある立派な所である。このflatだが、こうした用法以外の一般的な意味合いでは、平らなとか平坦なとか、べったりと横たわっているとか、単調なとか退屈なとか、不活発なとか深みのないとか、音楽用語としての半音下げるという意味の♭を意味するもので、当然ながら本作で何度も強調されている「flat」は、暗黙のうちにそうした意味合いの全てを込めているといえる。今の彼はまさしくflatな状況にあり、なおかつそこからもうどうにも動けはしないのだ。
これなど特に元の戯曲(フランス語)ではできない表現だと思うので、このへんはたぶん映画オリジナルだとは思うけれど、元はどうなってるのだろうなあと思うばかりである。ただ、この映画でなければできないだろう表現が山盛りなので、戯曲はあくまで下敷きで、中身はだいぶガラリと変えているのかもしれない。

ラスト、彼は自分がもう数カ月もの間、施設に滞在していることも覚えてはいない。作中でずっと描かれてきたのはかつての思い出や出来事なのか、この数カ月に彼が混濁のうちにさらに混濁を重ねて見ていたものなのか、もはや何もかもが分からない。アンソニーは、葉が落ちていくようだと怯え、だんだんとだんだんと家族の存在を手繰り寄せていくなかでついに自分の母親を呼んでくれと子供のように何度も口走る。介護士はその彼の混乱を丁寧に解きほぐし、彼のきょう一日の過ごし方を教え、あとで散歩に行きましょうと静かに語り聞かせ、彼も落ち着いた様子でそれに耳を傾ける。こうしたやり取りもこの介護士はきっと果てしなく彼にやってきたのだろうなあ。
ラストのこの施設はどこか彼のこれまでの家と間取りが似ていて、彼の部屋の場所も彼が寝室としていた部屋の位置とそっくりで、室内さえもなんとなくデジャヴがある。だけれどもはやあの広々としたフラットではなく、その奥にあった部屋だけが残ったと言えるわけで、葉が落ちていって、自分の領域が狭くなっていって、どん詰まりなのは変わらず、平坦(flat)で退屈(flat)で、どうしようもない。清潔感の漂う居心地のいい部屋の中にたまらなく息苦しさを感じる静かなラストが素晴らしかった。
家にいるときに会う介護士がアンソニーと対峙した後に娘に、彼のように混濁状態にある人はよくいるというようなことを言っていたけど、そういう意味でもflatなのだよなあ。けして特別でもなく、彼女にとっても相手にする人間が違うだけの繰り返し、繰り返し。

ただ愛とか優しいものだけではどうにもできない老いというものを平坦に退屈に息苦しく見せつけてくる作品だった。無事に老いていった先に少なからずに訪れる人生の落着点の不安とやるせなさが凝縮されていて、観ながら震えること幾度という感じである。
自分は自立した人間だとアンソニーは娘に主張したがっていたのだけれど、実際はもちろん全然そんなことはなくて、ろくに生活もままならない。でもそれを認めたくない。家から出たくない。その恐れは何であるのか。こういうのも施設に入れるか入れないかレベルの老いにある人間を取り巻く問題だと思うのだけど、そこをすくい取って一つの作品にしていたのだろう。

あと、主役の役者がアンソニー・ホプキンスで、主役の名前もアンソニーで、まるでアンソニー・ホプキンスのきたるだろう姿をリアルに観ているような感じもするし(アンソニー・ホプキンス自身演じていてそのへんフワフワした気持ちになってそうな気はするし、この状況を我が身で想像してみるとこわい)、こういうところが主人公アンソニーのもろもろの現実の混濁という要素の一つを演じてもいて、面白いんだけど、こわい。

円盤のトップメニューで流れるメインテーマの音楽もたぶん半音メインで妙な音が紛れていて短いうちにリピートして、作品のflatなところを表現しているように思う。鑑賞後にこれを流したまま感想を書いていたのでなんだかすごく疲れた。
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