鑑賞中(特に前半)は、認知症を疑似体験しているようでした。
自分は至って普通で意識もしっかりしているつもりなのに、目に映るもの、身の回りで起こる出来事には何故か見覚えがなかったりして、人やモノ、時間など全てが頭の中でぐちゃぐちゃと混ざりあっていく感じ。
でもそれはあくまで自分の中の話であって、混乱している自分を見て周りの人は呆れたり悲しんだりイライラしたりするんですね。
そんな自分を認知症だと自覚していないがために、娘を始め、自分を取り巻く他人と話が嚙み合わず、衝突することで、だんだん孤独を感じるになっていきます。
自分のことで揉めている家族を見たとき、何が起こっているのかわからず混乱したとき、とぼとぼと自分の部屋に戻っていく後ろ姿や、パタンとドアを閉める姿がとても寂しかったです。
認知症とは違いますが、人に理解されない悲しさ、自分が人とズレているということで感じる寂しさは私にも身に覚えがあって、主人公の視点に立つと胸が痛みました。
ただ、一方で娘の立場に立ったときには、大切な家族のことまで忘れていたり、自分の顔を見ても思い出してもらえないということは、どれほど辛いだろうと思いました。
傷ついているアンの顔を見ながら、私がもし自分の親兄弟を心から愛していたとして、こんなことがあったとしたら、きっと胸が張り裂けそうなほど悲しいんだ
ろうなと想像しました。
愛する人がいるということは、失いたくない人がいるとも言い換えられる。
そんな存在は一人でも多い方が幸せかもしれないけど、いるからこそ辛い思いをする機会も多くなると思うんですよね。
そもそも生まれ育ちが違えば、そんな悲しみよりも愛することを選ぶように価値観が育っていくのかもしれませんが・・・今の私は「自分には家族にそこまでの愛情がなくて、むしろ良かった」と思えました。
家族を失うこと(死別に限らず、忘れられたり愛情が薄れたりも含む)の悲しさ・辛さを乗り越えられるほどの強さが、私にあるとは思えないからです。
「人が死ぬのは、命が終わったときではなく、人々の記憶から消えたときだ」
という言葉をどこかで聞いたことがあります。
死はいつ何が原因で訪れるのかは、誰にも予想できません。でもそれと同じくらい、記憶もいつ消えてなくなるかわからないなと思います。
認知症も高齢者だけでなく、若年性認知症というものあります。
自分がアンソニーの立場になるかわからないし、死ぬまでにそうならないとは断言できません。
今そばにいて、目を見て触れて話すこともできるのに、自分をわかってもらえない。記憶から消し去られてしまっている。
肉体の死よりもむしろ、記憶から消えてしまう死の方が、当事者や家族にとっては苦しいのではないか・・・
そんな風に思うと、今大切に思う人達のことをもっともっと大切にしたいなと思いました。
会えるときに会おう、伝えられるときに伝えよう。
鑑賞後はなんともせつない気持ちになったけど、そういう大事なメッセージをくれる素晴らしい映画でした。